【藤原京・藤原宮の造営】

天武紀五年条には、

「是年、將都新城。而限內田園者、不問公私、皆不耕悉荒。然遂不都矣。」

とある。

新都造営計画を開始したので、

計画の範囲内の田園は耕地を中止してしまったので荒れ果ててしまったが、

結局は計画は中止された。

岩波版の注には、

他の『日本書紀』の写本には、この文章の下に

「或本無是年以下都以上之字、注十一月上」

と記された分注があるが、後人が書き入れたものであろうとしている。

天武五年是歳条に記された新都造営計画が、

藤原京の造営計画だったのか、

藤原京の造営計画だったとしたら計画は継続したのかちゅうしされたのか、

これだけではわからない。

天武十三年三月条には、

「辛卯(9日)、天皇、巡行於京師而定宮室之地。」

と記されているので、

天武は実際に新都の予定地を巡行して「宮室之地」に決めた。

それが藤原宮のことなのか、

朱鳥元年七月二十日条で飛鳥浄御原宮と命名される宮のことなのか、

定かではない。

近年の考古学調査によって、

先行条坊と同時代に築かれていた運河の下層からは

682〜684年〈天武11〜13〉を示す木簡や

685年制定冠位の「進大肆」木簡が出土したため、

天武天皇の時代には藤原京遺構の下に

先行条坊が築かれていたことがわかっている。