【「三宝の奴」となった聖武天皇】

『日本書紀』は持統十一年(697)八月皇太子に譲位して完了している。

引き続き『続日本紀』は同年同月から始まる。

文武五年(701)遣唐使(粟田朝臣真人が遣唐執節使)が任命された。

この遣唐使には山於憶良が記録係として同行している。

この年を境に唐文化の吸収熱が一気に高まっていくようである。

三月に「大宝」を建元し八月には大宝律令が完成する。

この頃の唐は則天武后が支配する「武周」を国名としており、

仏教が盛んになっていた。

大和朝廷は遣唐使によって唐文化、とりわけ仏教文化を吸収するようになる。

『日本書紀』聖徳太子の段には遣唐使によって得た知識が

盛り込まれていることが大山誠一氏などによって説かれている。

『続日本紀』天平勝宝四月条に記された聖武天皇の詔では、

「三宝の奴」と称して仏に対して天皇が北面した(=臣従すること)

と記されている。

天照大神の子孫であることを即位の正当性の根幹としてきた天皇が

仏に対して北面して「三宝の奴」と称したことと

天照大神の分身として伝わってきた「八尺勾璁」を軽視して

その産地(越国糸魚川)さえも忘れられたことの間には

因果関係があるのではないだろうか。

大宝律令において神宝を「鏡剣」として「八尺勾璁」を外したころには

大和朝廷の「天照大神ばなれ」が始まっていたのかもしれない。

【仏像の宝冠に多数飾られた勾玉】

東大寺不空羂索観音立像の宝冠には1万点以上の勾玉が飾られているという。

聖武天皇と光明皇后によって寄贈されたものらしい。

天照大神から引き継いできた勾玉をも含めて

勾玉をすべて三宝に寄進してしまったのだろうか。

この頃をきっかけにして人々は勾玉を身に着けることがなくなり

ヒスイの産地としての糸魚川の存在も忘れられていったようだ。

天照大神神話を由来とする勾玉は聖武天皇が仏教に帰依したことによって

威信材としての認識がなくなったばかりでなく

装飾品としても使用されなくなった。