【万葉集巻三416番歌】

大津皇子被死之時、磐余池陂流涕御作歌一首 右、藤原宮朱鳥元年冬十月

百伝 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟

ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

まず気になるのは「朱鳥元年冬十月」の宮が藤原宮だったという記述である。

言うまでもなく天武は飛鳥浄御原宮で崩御している。

藤原宮遷都は書紀では持統八年十二月。

どちらかの記述が間違っているということになる。

416番歌は一読しただけで皇子の無念が伝わってくる。

有馬皇子の辞世(141,142番歌)にも同じような感傷を抱く。

大津と有馬の刑死事件、

事件の経緯や辞世の見事さなど偶然の一致とは思えないほど類似性を感じる。

事件の経緯が書紀に載り、辞世が万葉集に掲載されている状況も同じである。

大津の辞世について、

『新日本古典文学大系・萬葉集』には、

結句「雲隠る」の語は死ぬことの敬避表現なので、

この歌は皇子自身の作ではないと記されている。

「磐余の池」は浄御原宮(あるいは藤原宮)から

自宅のある訳語田の舎(書紀によると自宅で自死に追い込まれた)への

途中にあるという。

池で遊ぶ鴨を見て、

このような日常の風景を明日からは見ることができなくなると

死を覚悟した皇子の観念の一句。

【万葉集巻二165番歌】

移葬大津皇子於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首

宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

うつそみの 人なる我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む

大津の姉である大来皇女が屍を二上山雄岳山頂に埋葬した時の作歌と題詞されている。

書紀によると、

「(朱鳥元年)十一月十六日奉伊勢神祠皇女大来、還至京師。」

とあるので、

伊勢斎宮から飛鳥に戻った大来が作歌したということになり、

万葉集の題詞は書紀の記述とつじつまが合う。

こちらは大来の自作かというと?である。

次に416番歌と165番歌の構成の共通点を見てみようと思う。

【二歌に共通する「詠嘆的疑問」】

古文の文法では、

第一人称を主格として「ヤ・・・ム」を用いた文は、

「こうも・・・することか」の意味の詠嘆的疑問を表す、という。

416番歌の「鳴く鴨を 今日のみ見て 雲隠りな」は

「こうも雲隠れする(死んでいく)のだろうか」、

165番歌の「人なる我れや・・・弟背と我が見む」は

「これからは(二上山を)弟と見るのだろうか」と

詠嘆的な表現がなされていることになる。

姉弟だから同じような構文を使ったのではなく、

この二つの歌は第三者によって

死んでいく大津と残された大来の情景を

一対になるように作歌したものと解釈したほうが良いのではないだろうか。

無理に本人が創ったものとしなくても十分か鑑賞にたえることができると思う。

万葉集には2486番歌(或本)、2534番歌が同一手法による類例。