【「壹」と「臺」の誤用の可能性はあるか】

前項では

(江戸時代に松下見林などが中心になって)

「邪馬台国」が近畿にあることの根拠として原文に記された

「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の間違いとして、なおかつ「臺」を「台」という略字に書き換え、

「邪馬台」という組み合わせを作り上げて「邪馬台」をヤマトと読むことによって

「邪馬台国」が奈良にあったと主張してきたからである。

古田はまずこれまでの主流の一つとなっていた

邪馬台国近畿説の有力な根拠を切り崩すことからスタートしたのであった。

と書いた。

【「第一章それは「邪馬台国」ではなかった」】

古田は『「邪馬台国」はなかった』の第一章を

「邪馬壹国」と「邪馬臺国」を間違える可能性を否定することに費やしている。

「第一章それは「邪馬台国」ではなかった」で、

当時の文献や金石文から「壹」と「臺」を探し出して、

字形が似ているかどうかを目視で確認している。

いくつかの例が紹介されているが、活字で見るほどの類似性はないように見える。

しかしこれだけでは主観の違いによることもあり決定的な根拠とはならない。

次に古田は有名な全数調査に乗り出している。

『三国志』内の「壹」と「臺」を総べて探し出し、

前後の文脈などから取り違えて誤用されている箇所がないかを調査するのだ。

「壹」と「臺」の完全調査である。

八十六の「壹」と五十八の「臺」があり、

そのすべてが「壹」が「臺」に、

あるいは「臺」が「壹」に誤用されていないことを確認している。

このようにして魏志倭人伝に記された「邪馬壹国」は、

「邪馬臺国」を書き間違えたものではないことを論証した。