【上梓してから半世紀】

古田武彦著『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎』は

1971年に朝日新聞社より発刊された。

邪馬台国論争に一石を投じてからすでに半世紀がたとうとしている。

出版されてからしばらくの間は古代史学会の中からも

『三国志・魏書・東夷伝・倭人条』(以下、魏志倭人伝or倭人伝)の記述に

真っ向から立ち向かった正統派の研究成果として注目された。

邪馬台国論争に新しい考え方をもたらしたと評価されたのである。

しかし論争などにおける古田の妥協を許さない姿勢に対して、

他の研究者は徐々に距離を置き、次第に古田を避けるようになった。

【学会から積極的に無視される古田説】

現在では邪馬台国九州説(以下、九州説とも)を説く論考においても

古田の著書が参考文献にあげられることは滅多になくなった。

門脇禎二が人生の最後に九州説への転向宣言をした『邪馬台国と地域王国』においても

古田武彦の名前はどこにも出てこない。

古田武彦の名前を避けることが学会の作法になっている様相である。

名前を出さないということは古田の研究成果のエッセンスだけが

断りもなく都合よく使用される可能性が高まってくるということ。

門脇の前掲書も古田が提唱したことを巧妙に変えて記していると思われる箇所が垣間見える。

例えば原文尊重(「南」を「東」と読み替える方法の否定など)、例えば短里など。

以上のように古田の先行学説に触れないように巧みに操作していることを差し引いても

門脇の九州説は特筆することができる研究成果であることは記しておきたい。

【古田説を埋没させないために】

微力ではあるが、邪馬台国論争における50年前の古田の業績を埋没させないために、

もう一度『「邪馬台国」はなかった』を読み直してみようと思う。

『「邪馬台国」はなかった』

【序章私の方法】

謎の女王国のとりこ

魏志倭人伝の中に「邪馬台国」と記されている箇所がどこにもないことに気づいた。

邪馬台国大和説(以下、大和説とも)の論者は「邪馬台国」の「邪馬台」を「ヤマト」と読み、

「邪馬台国」は大和にあったに違いないと主張している。

したがって倭人伝に「邪馬台国」が出てこないということは

邪馬台国大和説の根底が崩れることになる。

「邪馬台国」を否定した後に何が残るか、

卑弥呼の存在した国はなんという国名か、

それは一体どこにあったのか、

このような問いに答えるために『「邪馬台国」はなかった』を著したと古田は述べている。