【天智天皇の妃&皇子・皇女】
天智紀には七年正月条の即位の後、妃と皇子・皇女が記載されている。
妃の筆頭が古人大兄皇子の娘倭姫王、皇后と記される。
その他に嬪が四人、
蘇我山田石川麻呂大臣の娘が二人(遠智娘、姪娘)、
阿倍倉梯麻呂大臣の娘(橘娘)、
蘇我赤兄大臣の娘(常陸娘)である。
さらに宮女(後宮の女官)で皇子・皇女出産した者が四人記される。
宮女所生の中には壬申の乱で近江朝を率いた大友皇子、
光仁天皇の父親とされる施基皇子(春日宮天皇と追尊される)がいる。
皇后には子がなく、四人の嬪には早逝した建皇子(遠智娘所生)以外には皇子がいなかった。
【近江朝の出来事】
同年七月条には近江朝での出来事が列挙されている。
「時に、近江国兵法を習う。
又、多くの場所に牧を造って馬を放牧した。
又、越国から燃土と燃水を献上してきた。
又、浜辺の建物の下にいろいろな魚が水面を覆うように集まった。
又、蝦夷を招いて饗応した。
又、舍人等に命じて所々で宴を催した。」
「又、」で文章をつなぎ六例の事柄を紹介した後に、
「時の人曰はく、天皇の天命がまさに尽きようとしているか。」
と、これらの事象が王朝交代の前兆であると時の人がうわさし合っていると結んでいる。
兵法を学んだり、牧場を開いて馬の飼育を盛んに行っているのは、
近江国に移住している百済人から先進文化を吸収していることの表れであろう。
越国から燃土と燃水(石炭と石油か)が献上されたのも、
木材よりも効率の良い燃料の使用が始まったことをあらわしている。
これも百済渡来民の影響かもしれない。
海では魚が浜辺を覆い、蝦夷や周辺国の人々を饗応し外交関係も順調なようである。
これを日本書紀は、「人々が王朝交代の兆しとうわさし合っている」と結んでいるのである。
百済人を重視する政策に危機感を感じていたのかもしれない。
【『藤氏家伝』の近江朝廷礼賛】
『藤氏家伝』(以下『家伝』)の中の「鎌足伝(三十)朝廷無事」では近江朝廷について、
「朝廷には特に異変はなく、好きなことをしてのんびりと過ごしている。
食糧事情はよく人々の家には蓄えがある。
民は皆この太平の代を称賛している。」
と讃美している。
日本書紀が、百済人を重用して一見豊かになったように見えるが
実は王朝が最後を迎える兆しなのだ、と述べているのに対して、
『家伝』では、近江朝廷の時代は太平の代だと讃美している。
【天智礼賛と天武礼賛:日本書紀のダブルスタンダード】
日本書紀と『家伝』の近江王朝時代に対する評価の違いが、
7世紀から8世紀にかけての歴史観を二分している。
天智の時代を是とするか、壬申の乱を正当化する天武の時代を是とするか、に大きく分かれる。
『家伝』は明確に天智礼賛の立場をとっており、
上記の例では日本書紀との考え方違いがあらわれている。
しかし日本書紀が全て天武的な部分を是としているかというとそうでもなく、
ダブルスタンダードになっていることが解釈を複雑にしている。
日本書紀のダブルスタンダードは、
持統(天智が父、天武が夫)→文武(天智が母方の祖父、天武が父方の祖父)
→元明(天智が父、天武は義父)→元正(天智が母方の祖父、天武が父方の祖父)、
以上のように直近四代の天皇がすべて天智と天武どちらとも強い関係があることに由来している。
そのため実際には壬申の乱によって明らかに王朝交代が行われているのに、
継続王朝のように見せかけなければならない事情を日本書紀の編纂者はかかえていたのである。