【榎一雄と古田武彦の傍線行程】
倭人伝の行路表示をこれまでの多くの研究者は文章通り「加上式」に読んできた。
帯方郡治→狗邪韓国→対馬国→一支国→末盧国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬壹国
これが「邪馬台国」への道順と考えた。連続式読法である。
これに対して榎一雄は伊都国から先を伊都国を中心とした傍線行程と理解した。
帯方郡治から伊都国までは加上式に直線行程とし、伊都国以降は伊都国→奴国、伊都国→不弥国、伊都国→投馬国、伊都国→邪馬壹国となっているという解釈である。榎は帯方郡から伊都国まで直線行程で来て「到伊都國」とあり、その後、「至奴国」「至不弥国」「至投馬国」「至邪馬壹国」と続いているので「到」と「至」の使用漢字の違いに注目した。
しかし古田は魏使の目的地である邪馬壹国が傍線行程に入っているのは不可解とした。また古田は三国志の「到」と「至」の全使用法を抜き出して調べたところそのような二字の使用法の違いがないとの結論に達し榎説を否定した。
古田は行程記事の構文に着目した。
「先行動詞+至or到」となっているものと先行動詞なしに「至or到」となっているものに明確な違いがあるとした。
先ず「先行動詞+至or到」は、
●循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 其北岸狗邪韓國 七千餘里
●始一海 千餘里 對海國
●又南一海 千餘里 名日瀚海 一大國
●又一海 千餘里 末盧國
●東南陸行 五百里 伊都國
●東行至不彌國 百里 
 
次に先行動詞なしに「至or到」となっているものは、
〇東南至奴国 百里
〇南至投馬國 水行二十日
◎南至邪馬壹國 女王之所都

『三国志』内の文例から古田は以下のように解釈した。
「先行動詞+至or到」となっている六か所については魏使が実際に立ち寄った場所である。

次に先行動詞なしに「至or到」となっている三例の内、邪馬壹国以外の二つについては魏使は実際には訪れていない。奴国は二万余戸、投馬国は五万余戸有する大国なので倭人伝に記載したと推察している。

最後の「南至邪馬壹國」は表面上先行動詞がないが、ここに記された行程の目的地なので冒頭の「從郡至倭」と同様に、行程に出てくる全ての動詞を受けて邪馬壹国へ到着するととることができると古田は述べている。伊都国→奴国、不弥国→投馬国が古田の言う傍線行程で、総距離である一万二千余里には含まれない。
榎一雄の傍線行程論にヒントを得て古田武彦が倭人伝の行程文を解読した。ところが以上のように読んで記載されている各国間の距離を合計すると一万六百里となり、倭人伝に記された総距離一万二千余里に千四百里不足してしまう。最後に古田は不足した千四百里を倭人伝記事の中から発見することになる。