【「南」→「東」の改定】
至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰ふ。五万余戸ばかり。

この邪馬台国の所在を示す文章に対して、
「南」を「東」に改定すべきだという論があり、古田は邪馬台国の所在地をあらかじめ「ふたつのヤマト(大和か山門)」に決めた上での改定であると批判している。
つまり倭人伝の「邪馬壹国」をヤマト(大和か山門)にするために「邪馬臺国」と改訂し、さらに読みを合わせるために「邪馬台国」と簡易化して、あらかじめ決めた所在地につなげるために「南」を「東」に、「陸行一月」を「陸行一日」に改定している、改訂だらけの邪馬台国論を否定しているのである。
古田は内藤湖南の例をあげる。
湖南は「支那の古書が方向をいう時、東と南を相兼ね、西と北を相兼ねるは、その常例ともいふべく云々」とし、『後漢書』「勿吉(ぶっきつ)伝」の例をあげて、「東南行すべきを東北行十八日とせる」を中国史書が方角を誤った例としている。
古田は湖南がこの一例をとって「中国史書の常例」としていることに疑問を抱き、三国志の方角記事を全数抜き出して調査し、東859例、西560例、南576例、北242例あることを示して、陳寿が東を南と書く傾向があれば東がこれほど多く出てこないと指摘し、さらに南576例の中に「東と南を相兼ねことを常例」とした例は見受けられなかったと記している。