【『後漢書』に記された「邪馬臺国」】
三国志の写本にはすべて「邪馬壹国」と記されているが、5世紀(432年頃)に記された『後漢書』にはなぜか「邪馬臺国」になっている。
これまでの研究者は近畿説、九州説を問わず三国志の「邪馬壹国」は「邪馬臺国」とあったものを写本段階で誤記したものとして疑うことがなかった。
古田武彦はそこに疑義を抱いたのである。
当時の字体の分析から「壹」と「臺」の字形が異なっていること、三国志の中に「臺」を「壹」と書き誤っている例が存在しないことから誤記説を完全に否定した。
それではなぜ『後漢書』に「邪馬臺国」と記されているのだろうか。
古田は范曄が記した『後漢書』の例を挙げて頭脳明晰で名文化である范曄が『三国志』に対して無造作で奔放な態度で接していたことをいくつかの例を挙げて示している。
例えば、倭人伝の「会稽東治」を「会稽東冶」と書き間違えているなど。
同時に古田は范曄と同時代に生きた裴松之が記した『三国志・裴松之注』のには「邪馬壹国」と記されていて、「邪馬臺国」の表記がないことにも注目している。
異説や異なった表記などを丁寧に併記することを心掛けている裴松之でさえも「邪馬臺国」を記していない。
古田もはっきりと記してはいないが、『「邪馬台国」はなかった』を書いたこの段階では「邪馬臺国」は范曄の書き間違いと考えていたのかもしれない。
後に古田は、「邪馬壹国」と「邪馬臺国」の違いについて、前者は卑弥呼が直接治めていた国のことで後者は卑弥呼が住んでいた宮殿のある場所のことと考えるようになった。
正解がどこにあるかは別にして、史料としての事実は『三国志』には「邪馬壹国」と記され、『後漢書』には「邪馬臺国」と記されているということである。
ちなみに『三国志』は3世紀末、『後漢書』は5世紀中頃に編纂されており、『後漢書』の編者の范曄は『三国志』を見て書いていることは疑いようがない。