【解読できない歌謡:日本書紀歌謡122番】
日本書紀斉明天皇6年是歳条には以下の64文字の歌謡が掲載されている。
摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
カナに書き直すと、
まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわだとのりかみをのへだをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへだをらふくのりかりが 
となる。
岩波版の注はこの歌謡の解釈について、「諸説あるが、未だ明解を得ない。要するに征西の軍の成功し得ないことを諷する歌に相違ない。」と記している。

孫崎紀子氏の発見】
ところが、2002年に孫崎紀子氏がこの歌はペルシャ語で読むことができるということを発見し、「舎衛女のうた」を発表している。(再下段に別紙として孫崎氏作成のペルシャ語対照を記載)
ペルシャ語で読むと、
摩比邏矩都能 倶例豆例
於能幣陀乎 邏賦倶能理歌理鵝 
美和陀騰能理歌美
烏能陛陀烏邏 賦倶能理歌理鵝 
甲子騰和與騰美 
烏能陛陀烏 邏賦倶能理歌理鵝
まひらくつのくれつれ    
(あなたに危険の迫ることがないように 人を惑わせる仕事)
をのへたをらふくのりかりが 
(彼は神ではない そして道を知らせて下さい火の労働者よ)
みわだとのりかみ      
(友愛と光が少ない)
をのへだをらふくのりかりが 
(彼は神ではない そして道を知らせて下さい火の労働者よ)
甲子とわよとみ       
(私の記憶があなたと共にありますように)
をのへだをらふくのりかりが 
(彼は神ではない そして道を知らせて下さい火の労働者よ)
となるという。

【ササン朝ペルシャの王族が日本まで来ていた】
この歌は孝徳紀、斉明紀に記されている以下の吐火羅(=都貨邏、覩貨邏)国人の来訪記事と符合している。
六五四年(孝徳天皇の白雉五年)夏四月、吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人、風に被ひて日向に流れ来たりき。
 六五七年(斉明天皇の三年)秋七月、都貨邏國の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊てき。言さく、「臣等、はじめ海見の嶋に漂ひ泊れり」とまをしき。すなはちはゆまを以ちて召しき。辛丑の日、須彌山の像を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の會を設けき。暮、覩貨邏人を饗へたまひき。或る本にいはく、堕羅人なりといへり。
 六五九年(斉明五年)三月、丁亥の日、吐火羅人、妻の舎衛婦人と共に来り。
 六六〇年(斉明六年)七月、また覩貨邏の人乾豆波斯達阿、本土に帰らむとし、送使を求ひ請して、「願はくは後に大国に、朝らむ。所以に妻を留めて表とす」と曰ひき。すなはち数十人と西の海つ路に入りき。
白雉5年(654)に吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人が日向に、斉明3年(657)に都貨邏國の男二人、女四人が筑紫に到着した。斉明5年(659)に吐火羅人、妻の舎衛婦人が朝廷にやってきた。翌斉明6年(660)には、覩貨邏の人乾豆波斯達阿は一度国に帰り、後にまた戻ってくるので妻を人質に置いていく。」と申し出たという。
孫崎氏は斉明6年条に記された歌は残された妻の舎衛婦人が夫の無事を祈って歌ったものと詠んでいる。
ここに登場した吐火羅人とは、651年に滅亡したササン朝ペルシャの王族が唐に亡命した後、その一部が倭国まで移動してきたと推測している。したがって歌謡はペルシャ語で書かれ、ゾロアスター教を思わせるところもある。またペルシャでは人質を残して帰国することが慣習として行われていたことも孫崎氏は報告している。
この小論は2002年に世に出ており、2016年には現代書館から『「かぐや姫」誕生のなぞ』という題名で出版されている。これまで解明されなかった日本書紀の歌謡の謎が明確に解き明かされているにもかかわらず、私の知るところでは学会の反応はほとんど感じられない。素人の言うことには耳を傾けないということかもしれないが、もしそうだとしたら真理を追究する姿勢からは程遠いといわざるを得ない。

(参考)歌謡のペルシャ語による解釈(孫崎氏作成)
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