【那須国造碑:国造と評督】
那須国造碑は庚子年(文武4年、700年)正月に没した那須直韋提の墓所に建てられた。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造


追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月

二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓 以下略」


ここには生前の那須直韋提が任じられた二つの官名と一つの位階が記されている。
「那須国造」と「評督」が官名、「追大壹(正八位上相当)」が位階である。墓誌に記された文章は漢文の文法ではなく単語を漢字で並べたというような構成となっている。
通説では「永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原朝に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、那須評督に任じられた。」という解釈となっている。
この解釈だと韋提の最終官職は「評督」ということになる。
古田武彦氏は、この文章を「飛鳥浄御原大宮、那須国造追大壹を那須直韋提評督に賜る。」と読むべきと主張している。
韋提の最終官職は「那須国造」である。
ここに出てくる位階は「追大壹」だけなので、韋提がこの位階で没したことはほぼ間違いない。
位階の「追大壹」は次の「那須直韋提」とセットである。
「追大壹那須直韋提」が那須国造から評督になったのか、評督から那須国造になったのか、この碑文を解釈することによって国造と評督の上下関係が判明するのである。
古田氏は藤原宮で発見された木簡「己亥年(699年)十月、上挟国阿波評松里」から国は評の上部概念であることの根拠とし、評督の韋提が国造になったと読むのが正しいとした。(古田武彦著『古代は輝いていたⅢ』より要約)
九州王朝の治世においては都督→国造→評督→・・・の序列だったということである。