【評ができたのは白村江の敗戦以降か】
都督府とは中国の冊封体制における名称である。
隋書俀国伝に出てくる俀国は隋と対等外交を求めているので冊封関係にはないと考えられる。
その後唐との関係においても冊封体制の中に組み込まれたとはどこにも記されていない。
となると「評督」がいる「評」が制度化されたのはいつのことであろうか。
日本書紀の改新の詔は645年発布であるが、倭国はその時点では冊封体制の中にはいないので「都督」制度は生きていないはず。
したがって都督がいないのに「評督」を作ることはあり得ない。
となると、都督が改めてできたのは、白村江の戦に破れた後、日本書紀が記すように天智6年より前ということになろう。
663年から667年の間ということになる。
「立評の詔」はその頃に出されたのであろうか。