【「評」は近畿天皇家が作った制度ではなかった】
日本書紀が行政単位であった「評」を「郡」と書きかえたのは、「改新の詔」が近畿天皇家の詔ではなく、倭国=九州王朝で出された詔であったからであるというのが古田武彦氏の主張である。
古田氏はその根拠を次のように説明している。
「評」の支配官職である「評督」は九州から関東まで広範囲に出現している。
大勢いる「評督」の上部単位は「都督」。
日本列島に都督があったのは筑紫都督府だけ。
文献的には天智6年11月に「筑紫都督府」という名前が出てきており、現在も太宰府に「都府楼跡」という地名が残っている。
古田氏は以上のような論拠をあげて九州から関東に至る「評督群」の上部単位は「都督」で「都督府」は太宰府にあったと考えざるを得ないので「評制」を管轄支配していたのは筑紫に中心がある倭国=九州王朝であると主張している。
さらに「使持節、都督」を称した倭の五王がいた場所は「都督府」であるので倭の五王は筑紫の王者という帰結になることにも言及している。
―『大化改新詔の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判(古田武彦氏20051030日東大駒場日本思想史学会大会講演。『なかった』創刊号に全文掲載)より―