【「漢委奴国王」の読み方】
志賀島で発見された金印の印文、「漢委奴国王」を教科書では「漢の委の奴の国王」と読んでいる。
手元にある『詳説日本史書きこみ教科書(日本史B)』には、「『後漢書』東夷伝には、紀元57年に倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽におもむいて光武帝から印綬を受け、」と記されている。
「漢の委の奴の国王」の読み下しが採用されていることになる。
この読み下し方は、1899年、三宅米吉氏は、「倭奴国」は「倭の奴国」と読むべきであり魏志倭人伝の「奴国」と同じ国であり儺県・那津と言われた博多周辺であると主張したことに由来する。
古田武彦氏は『「風土記」にいた卑弥呼』で金印の「漢委奴国王」の読みに対して次のような解釈をしている。
中国の印文の例を二つ提示、「漢帰義胡長」と「晋帰義羌王」である。
前者は「漢の帰義の胡長」、後者は「晋の帰義の羌王」と読む。
この中の「帰義」は中国の天子への忠節を示す言葉なので国名としては中国側の「漢」と「晋」、夷蛮側の「胡」と「羌」である。
二種類の国名である。
授与者と被授与者の二者のみが記されている。
したがって、「漢委奴国王」の読みは「漢の委奴の国王」が正しい。
以上が古田氏の考え方である。
古田氏はその他の例として『漢書』匈奴伝に記された印章「新匈奴単于章」を挙げている。
これも「新の匈奴の単于章」で、国名は「新」と「匈奴」の二国である。
このように古田氏は通説となり教科書にも記されている三宅米吉氏の「漢の委の奴国王」の読み方を明確に否定した。

【「倭奴国」は伊都国か】
天明四年に著された上田秋成著『漢委奴国王金印考』には、
「此の委奴と云うは皇朝の称号にあらず。当今筑紫の里名にて、『魏志』に云う伊都国是れ也」
と記されており、それ以来三宅米吉氏の「委の奴国」説が出るまで主流だった。
三宅氏は上田氏の委奴国=伊都国説に対して、「委」は「ヰ」で「伊」は「イ」、「奴」は「ド」で「都」は「ト」なので「委奴」と「伊都」は音韻が合わないと否定した。
古田武彦氏は魏志倭人伝の次の文章に注目する。
「伊都国・・・世々王有るも、皆女王に統属す。」伊都国は漢の時代から女王国に統合下に入っていたので金印を授与された委奴国王のいた国とは異なると主張した。

【古田武彦氏の結論】
古田氏は金印問題についての結論を以下のように記しています。
●志賀島の金印は「漢の委奴の国王」と読む。
●光武帝から「委奴国」と呼ばれたのは、のちに魏・晋朝から「邪馬壹国」と呼ばれた国だ。
●それは博多湾岸に都する九州の王者であった。