【唐に認められるために仏教化を急いだ日本国】
旧唐書によると「日本国」からの使者は703年にやって来た。
「長安三年、其大臣朝臣真人来貢方物。」
長安3年(大宝3年、703年)日本国の大臣である朝臣真人が来訪し日本国の特産物を土産として持ってきた、と記されている。
建国されたばかりの日本国はこれ以降急速に唐に歩み寄ることになる。
唐から一人前の国家として認めてもらうには、律令を持っていること、歴史書があり現在の国王の正当性が認められることともう一つは仏教に対する理解が求められた。

【筑紫から寺院や仏具を持ち込む】
仏教に対する理解を深めるために仏教僧を遣唐使に加えて経典や仏具の入手を急いだ。
さらに仏教先進地域であった筑紫から寺院を解体して大和に持ち込み再建することが行われた。
同時にその寺院にあった仏像や仏具も持ち込まれた。
そのことは法隆寺釈迦三尊像の光背の裏に記された銘文が日本書紀に記されている内容と全く合致しないことに表れている。
さらに法隆寺の本堂建築の基準となった尺寸が近畿で使われていたものではなく筑紫で使われていた南朝尺が使用されているという研究は川端俊一郎氏などによって繰り返し主張されている。

【法興寺、元興寺、飛鳥寺は同一の寺か】
日本書紀岩波版の注釈などには7世紀から8世紀にかけて建立された法興寺、元興寺、飛鳥寺は同じ寺の三つの名前であると記述されている。
確認のため三つの名称が記載されている箇所を注意深く調べてみたが、日本書紀にはその三つの名称が同一の寺院のことを指しているという記述はどこにもないことが分かった。
どうやら後世に記された元興寺縁起などによって三名称が同一寺院であるとの結論が得られているようだ。

【飛鳥寺は筑紫にあったという痕跡】
日本書紀を調べていくうちに飛鳥寺がどうやら北九州にあったのではないかという痕跡を見つけることができた。
ひとつは、斉明3年7月3日条の覩貨邏人一行は筑紫に漂着した記事。
彼らは漂着した12日後に飛鳥寺の西に須彌山像を作っている。
覩貨邏人一行は筑紫から「驛で」朝廷まで召された後、筑紫(博多港か)から12日以内に移動して須彌山像を完成させることができる場所に飛鳥寺はあるということである。
筑紫から朝廷まで「驛で」=陸路で向かっている。
このことから飛鳥寺は九州内のどこかにあったことに帰結される。
もう一つは、天武10年8月20日条。
多禰嶋に遣わした使人たちが多禰國の地図を持ち帰った。
其國は京を去ること五千餘里で、九州の南海の中にある、と記されている。
現在の地図で測ると北九州から種子島までは約450km、魏志倭人伝に記された短里が1里=80~90mなのでほぼ一致している。
多禰國からの客人を受け入れたのは九州王朝だったのである。
その多禰國からの来訪者をもてなした場所が、「飛鳥寺の西の河邊」。
「飛鳥寺」が筑紫にあったことを示している。
天武紀には「飛鳥寺」が13回出てくる。
正式には12回、1回は「明日香寺」。
天武11年7月27日条の記述だけ「明日香寺之西」となっている。
他がすべて「飛鳥寺西」となっているので明らかに書き方が違う。
「飛鳥」と「明日香」の違いだけではなく、「明日香寺之西」と「之」が入っている。
この条だけ原資料の記述が残ったのではないだろうか。
九州王朝の「明日香」である。
九州王朝の明日香寺が移転されて大和の飛鳥寺になったのではないかとの仮説である。

【「筑紫明日香」を「大和飛鳥」に】
天武天皇は壬申の乱に勝利した後、政治の中心を大和に遷した。
九州王朝の制度を取り入れて律令による政治支配を志向した。
冠位や姓の制度を確立し租庸調を順調に行うために行政区などの整備も進めたことが日本書紀には記されている。
政治改革を進めた天武天皇は朱鳥元年7月自ら政務をとってきた宮を飛鳥浄御原宮と名付けた。
崩御する直前のことだった。
「朱鳥」は九州年号の「朱雀」を継承した年号である。
「飛鳥浄御原宮」の名称も「筑紫」の都があった「明日香」から名前を譲り受けて、天武朝が九州王朝の後継王朝であることを宣言したのであろう。