【向原寺、桜井寺、豊浦寺】
7世紀から8世紀にかけて存在した大寺院には複数の名前を持つ寺院がある。
向原寺、桜井寺、豊浦寺の3寺は日本書紀ではそれぞれ独立して記されているが、後世の解釈によって同一視されたものと考えられる。
日本書紀の記述から3寺が出てくるところを抜粋してみる。
●欽明13年(552)、百済聖明王から贈られた仏像などを天皇の命で蘇我稲目が向原の家を清めて寺として安置した。→向原寺
●崇峻3年(590)、百済から帰朝した善信尼たちが桜井寺に住むようになった。
●舒明即位前紀で山背大兄が病の叔父・蘇我蝦夷を豊浦寺に見舞った。
このように3つの寺は別々に記載されていて、同じ寺であることを示す記述はない。後世の識者が後の資料(元興寺縁起や聖徳太子伝歴)などから解釈して同一寺としたに過ぎない。

【法興寺、飛鳥寺、元興寺】
法興寺、飛鳥寺、元興寺も同じ寺の名称であるとされる。
日本書紀岩波版の補注には、
「飛鳥の地につくられた寺であるので飛鳥寺とよばれ、法号で法興寺とも元興寺ともよばれた。」
とある。
この3寺についても日本書紀内で同一視しているわけではない。
続日本紀養老2年9月23日条に、
「法興寺を新京(平城京)に遷す。」
とあり、
補注では平城京移転後に元興寺とし、飛鳥に残された法興寺は本法興寺ともいう、とあるが、平城京に遷した寺を元興寺と改称したならば法興寺に「本」を付ける必要はないのではないか。
日本書紀にも「元興寺」という名称は出てくるので、元興寺という名称が平城京移転後初めて使われたということでもないようだ。
この3寺についても、日本書紀の記述から3寺が出てくるところを抜粋してみる。
●崇峻即位前紀秋7月条、物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は本願に依り飛鳥の地に法興寺を建立した。
●皇極3年正月条、中大兄と中臣鎌子は法興寺の槻の下で出会う。
●斉明3年7月15日条、筑紫に漂泊した。覩貨邏國男二人女四人が須彌山像を飛鳥寺の西に作った。
●天武10年9月14日条、多禰嶋からやって来た人たちを飛鳥寺の西の河邊で饗した。
●天武11年7月27日条、隼人たちを明日香寺の西で饗した。
●推古14年4月8日条、銅と繡の丈六佛像がどちらも完成した。その日のうちに丈六銅像を元興寺金堂に鎮座させようとした。
●推古17年5月16日、倭国に残ることを希望した百済僧の道人等十一人を德摩呂たちは上表し彼らを残す許可を得て、元興寺に住ませることにした。
以上のように日本書紀には法興寺が飛鳥に建立されたということを除いて3寺を関連付ける要素は全く存在しない。