【「是日、定諸寺名也。」】
天武8年4月5日条に、「是日、定諸寺名也。(この日に諸寺の名前を定める。)」とある。
岩波版の注には、「これまで飛鳥寺・斑鳩寺のように地名を称していたのを、大官大寺にならって元興寺・法隆寺などの漢風の名称を定めたものか。」と記されているが、日本書紀が「法興寺」という名称を記述しているのは天智10年10月条までで、注で言っていることと全く合致しない。
「法興寺」が漢風の名称でないというわけでもあるまい。
【壬申の乱の舞台となった飛鳥寺」】
飛鳥寺は壬申の乱の舞台として登場する。
前半戦で大海人皇子軍が戦況を有利にした戦いである。
天武元年6月29日是日条、大海人軍の大伴連吹負たちは飛鳥寺の西の槻の下で近江軍の小墾田の武器庫から武器を近江に運ぶ役割の穂積臣百足をとらえて斬り殺した。
このことを聞いた大海人皇子は大伴連吹負を将軍に任命した。
【飛鳥寺と法興寺は同一か?】
「飛鳥寺の西の槻の下」、岩波版の注には、「皇極三年正月条の法興寺槻樹にあたるのであろう」と記している。
「飛鳥寺西槻下」と「法興寺槻樹」を同じものと推定するのは安易すぎるのではないだろうか。
普通に読むと「「法興寺槻樹」は法興寺境内にある槻、「飛鳥寺西槻下」は飛鳥寺の西方にある槻ととれる。