【蘇我氏の氏寺だった法興寺】
法興寺は蘇我氏の氏寺だったようだ。
中大兄は蘇我氏に招かれて法興寺の蹴鞠の会に出席していたのだろう。
そこで鎌足と運命の出会いを行うことになる。
乙巳の変をクーデターだったということがあるが、この言葉が的を射ているとすると政権を担っていたのは蘇我氏だったことになる。
この時代の支配者は蘇我氏だったのであろうか。
【剣池の瑞兆】
皇極3年6月6日条、
「剣池に一本の茎に二つの花が咲いているハスが見つかった。
蘇我大臣は根拠もないのに推量で、これは蘇我臣が栄える瑞兆だ、といったという。すぐに金泥をその花に塗大法興寺の丈六の仏に献じた。」
【法興寺を戦いの拠点とした中大兄】
皇極4年6月12日、乙巳の変の当日である。
何とか蘇我入鹿の殺害に成功した後中大兄は、
「中大兄は法興寺に入って城として蘇我氏の逆襲に備えた。
ほとんどの皇子や諸王諸卿大夫臣連伴造國造がことごとく中大兄に隨侍した。」
乙巳の変は中大兄の思惑通りに遂行され、主導権を獲得したと日本書紀は記す。
主導権を握った中大兄は法興寺を拠点としている。
法興寺は中大兄にとって重要な舞台となった。
【古人大兄、法興寺で出家し吉野へ】
乙巳の変の後、皇極天皇は退位の意思を固めて中大兄に譲位しようとする。
中大兄は中臣鎌足と協議して義兄の古人大兄がいるのに弟の身で即位するのは好ましくないと判断し、天皇に天皇の弟の軽皇子を即位させるよう上申している。
矛先を向けられた軽皇子は舒明天皇の息子である古人大兄が即位するべきだと言ってやはり辞退する。
次に打診された古人大兄は、自分は即位するのではなく出家して仏道でにおいて天皇に協力したいと述べおわると、
「帯刀していた刀を外し、地になげうち、側近たちにもみな刀を捨てさせた。その後、法興寺の仏殿と塔の間に詣でて髯髮をそり落とし僧の袈裟を着た。」
古人大兄は法興寺で出家した後、吉野に向かい隠遁することになる。
この段は後の大海人皇子が天智天皇のもとを去るときの説話と酷似している。
【病の治癒を法興寺へ祈願した天智天皇】
天智天皇は乙巳の変において戦いの拠点としたほどなので、法興寺を大切にしていたようだ。
天智紀では病の床に就いた後、天智10年10月、
「是月、天皇は遣使して、袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財を於法興寺の佛に奉った。」
天智天皇は法興寺に祈願することによって病の治癒を託したのだろう。
蘇我氏の時代から引き継がれて天智天皇に至るまで法興寺への信仰が強かった様子が日本書紀に描かれている。