【珂瑠皇子即位で一致した三千代と不比等】
県犬養三千代と藤原不比等の利害関係は、珂瑠皇子即位で一致した。
草壁皇子早逝後持統帝即位を進言したのは不比等であったが、即位実現までには珂瑠皇子の母阿閇皇女に仕える三千代の協力は不可欠だった。
草壁皇子の息子で持統帝の孫珂瑠皇子を即位させるための「つなぎ」策である。
持統帝が即位して権力を握ることによって、多数存在している天武帝の皇子たちを後継から排除するために、皇位を望むと大津皇子のようになることを感じさせる必要があった。
天武帝の皇子たちには大津皇子の悲劇は強い印象となって残っていたであろうから。
【文武天皇即位は三千代と不比等の合作】
珂瑠皇子の即位は三千代も切望していることだった。
持統帝の参謀として珂瑠皇子の英才教育にもかかわっていた不比等は三千代と接する機会が増えた。
策士である不比等と賢女三千代は珂瑠皇子の即位問題で意気投合した。
二人は急速に接近し、三千代の夫美努王が筑紫へ転勤になると、三千代は不比等と再婚する。
状況的には美努王の転勤→離婚(離婚→転勤かもしれない)は三千代と不比等の共謀の可能性が強い。
珂瑠皇子は持統11年(697)2月立太子、8月即位。
15歳の若さで文武天皇となるが、これも不比等と三千代の合作であろう。
【宮子入内に一役買った三千代】
即位とほぼ同時期に不比等は娘の宮子を珂瑠皇子と結婚させている。
梅原猛氏は「海人と天皇」の中で、宮子は紀国日高郡九海士の里出身の絶世の美女で不比等の実子ではなく養女だったことを論じている。
(当ブログの以下の記事もご参照ください。
宮子を珂瑠皇子に会わせて思春期の珂瑠皇子を夢中にさせるくらいは不比等と三千代にとってはそれほど難しいことではなかっただろう。
【持統―文武、元明―聖武は天孫関係】
文武天皇も父親の草壁皇子同様あまり身体が強くなかった。
即位して10年後、25歳の若さで早逝する。
息子の首皇子(聖武天皇)はまだ10歳、即位年齢に達していなかった。
まだ皇位継承権のある天武帝の皇子たちはかなり生存していた。
皇位を彼らに渡さないために持統帝即位の時と同様に、不比等は文武天皇の母親である阿閇皇女(元明天皇)を即位させることを考えた。
阿閇皇女自身を説得するのは出仕以来仕えて阿閇皇女からの信頼を得ている三千代の役割だっただろう。
首皇子即位まで皇位を天武帝の皇子たちから守るつなぎ策である。
【天孫関係の正当化】
元明天皇の在位中に完成した「古事記」の神話で描かれた天照大神と天孫瓊瓊杵尊の関係は持統帝―文武天皇と元明天皇―聖武天皇の関係と同じである。
史書の中に現状を正当化するストーリーを描くことは特に記・紀に多く見られるが、これも不比等と三千代の知恵だったのかもしれない。
結果的には元明天皇は娘の元正天皇に譲位し二人の女帝の継投で聖武天皇につなぐこととなる。