志賀島の金印(「漢委奴国王」)について要点を整理しておきたい。
【金印の発見の定説】
金印の発見は天明四年(1784年)、
志賀島の百姓甚兵衛が自分の領地の溝を掘っている時、
「二人持ち」ほどの大石の下にピカリと光るものがあり、
これを水にすすいだところ問題の金印が見いだされた。
ということになっている。
【甚兵衛の口上書】
福岡市立歴史資料館には甚兵衛の口上書が保管されている。
ここに保管されている口上書は、
昭和の初期に市の関係者(中島利三郎氏)が写し直しとものだという。
この口上書には不審な点がいくつかある。
●写しなおしたものなのに甚兵衛の印が押されている。
●甚兵衛の口上書を保証する形で書かれた追って書きには、
村の代表者たちの印は押されていない。
●甚兵衛の印は現存しない。
●元の文書(書写原本)も存在しない。
【学芸員塩谷勝利さんの発掘調査】
元福岡市教育委員会学芸員の塩谷勝利さんが
この口上書に基づいて金印の発掘場所を確かめるべく
長い間志賀島一帯を発掘調査したが発見できなかった。
塩谷勝利氏は、
「甚兵衛の口上書がいう発見のストーリーと、
現地の発掘調査とはまったく一致しない」
という要旨の発表を行った。
【古田武彦氏のまとめ】
金印問題について古田武彦氏が次のようにまとめている。
第一、金印そのものを「後代の偽物」とみなす説もあるが、
金印そのものは、後漢の光武帝から送られた本物に違いない。
第二、前原市の細石神社にこの金印が収蔵されていた、
という伝承は信憑性が高い。
第三、細石神社の金印は「侍」に持ち去られた、と言われている。
第四、博多の米屋才蔵がこれを買い取り、交流のあった津田源次郎に見せた。
第五、才蔵と津田源次郎から相談を受けた
黒田藩藩校(「甘棠館」、「修猷館」)の主催者亀井南冥は、
津田源次郎の私領地(志賀島叶の崎=金の崎)から出土し、
現地百姓が源次郎に差し出し、
源次郎が黒田藩に納入したというストーリーを作り上げた。
第六、亀井南冥は「金印弁」を発表し名声を博したが、
次に出した「金印議」の中で、
「この金印は中国から帰る途中、海中に落としたもの」
といった荒唐無稽な解説を加えて評判を落とした。
第七、亀井南冥は晩年黒田藩から「閉門蟄居」の刑を受けて、
不遇のうちに没したという。
【まとめ】
甚兵衛自信も子孫も志賀島にいたという「本籍」は存在せず、
亀井南冥の作り話だった可能性が高いようだ。
ここに書かれた古田説の通りだとすると、
なぜ亀井南冥が作り話を作らなければならなかったか、
「中国からの帰りに海中に落とした」などと蛇足を付け加えたか、
を明確にすればすっきりするだろう。
才蔵と亀井南冥は金印が細石神社から持ち去られたものであることを
知らなかった、ということだろう。
もし知っていれば、嘘がすぐばれてしまうことはわかっていただろうから。