慶長18年(1613年)京都市左京区にある崇道神社の裏山にある小野毛人朝臣(?~677年)の墓の中から金銅製の墓誌が発見された。
小野毛人朝臣の名前は日本書紀には全く登場しない。
続日本紀和銅7年4月条に、
「小野朝臣毛野薨しぬ。小治田朝の大徳冠妹子が孫、小錦中毛人が子なり。」
と出てくる。
つまり小野毛人は小野妹子の子で、小野毛野の父ということが書かれている。
 
小野毛人墓誌には次のように書かれている。
(表面)
飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏面)
小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
 
論点①「朝臣」
小野毛人の姓である「朝臣」は、毛人が亡くなった丁丑年(天武6年、677年)にはまだ近畿天皇家では制度化されていなかった。
薮田嘉一郎氏は、
「この金石文は毛人が埋葬された時の物ではなく、8世紀になってから毛人の息(小野毛野)が作成し追葬したものだ。」
と主張し、現在ではこれが定説となっている。
続日本紀には毛人の位は「小錦中」となっており、墓誌の「大錦上」とは食い違っている。
古田武彦氏は墓誌の「朝臣」は九州王朝の官職名で、小野毛人は九州王朝の寵臣だったと主張している。
もしそれが事実だとすると、当然父親の小野妹子も九州王朝から派遣された遣隋使ということになる。
日出処の天子=「多利思北孤」が九州王朝の天子であり、遣隋使として小野妹子が派遣されたとなって辻褄が合うことになる。
 
論点②「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
小野毛人は天武6年に無くなったのだから天武帝は現在の天皇であり、昔の天皇を指すような言い方、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」、は不自然。
天武帝の本名である天渟中原瀛真人天皇と書くのが普通ではないか。
古田武彦氏は飛鳥浄御原宮治天下天皇=天武帝という思い込みから脱却しない限り真実の歴史は見えてこないという。
墓のあった崇道神社は桓武天皇の同母弟早良親王を祭神としているが、古田氏は九州王朝の天皇で小郡市に正倉院を創設した崇道天皇(久留米市史に記載があるという)を祭った神社であるとしている。