正倉院所蔵の「筑前国嶋郡川邊里戸籍」には肥君猪手を領主(?)とする
24戸、438人(実際の総数は破損などで確認できない分を入れると約500名)の
名簿が記載されていた。
肥君が4戸あり、その他に部民の家が20戸数えられる。
部民の内訳は、
卜部7戸、
物部4戸、
葛野部4戸、
大家部1戸、
大神部1戸、
己西部1戸、
建部1戸、
許世部1戸
となっている。
今回太宰府市国分松本遺跡から出土した戸籍木簡では
「嶋評川ア(部のこと)里とあるので、
正倉院所蔵戸籍と同じエリアと見てよいのではなかろうか。
行政単位が「評」となっているので、
701年以前であることは間違いない。
正倉院所蔵の戸籍が702年なので、
今回出土のの戸籍の方が古い時代ということになる。
太宰府市教育委員会から発表された中で、
多くの住民の名前が確認できるのは「木簡1」だけで、
建部、
占部(卜部と同じか)、
穴口部、
白髪部
の4つの部民名が確認できる。
この中で建部、占部は継続しているが
穴口部、白髪部は702年の戸籍には見いだせなかった。
残念ながら領主などほとんどがまだ発掘されていない。
今後国分松本遺跡から残りの戸籍が発見されると
律令制以前と以降の違いなど
いろいろなことがわかることが期待できるので楽しみである。