後漢書によると、
「建武中元二年(57年)倭奴国奉貢朝賀」して「光武賜以印綬」とある。
倭奴国が後漢の首都洛陽に朝貢して金印を授与された記事である。
後に志賀島から発掘された「漢委奴国王」の金印のことと言われている。
この時点(57年)では倭奴国が倭国を代表する国であると
後漢からはみなされていた。
続いて後漢書には、
「安帝永初元年(107年)倭国王帥升等献生口百六十人願請見」
57年から107年の間に倭国内の勢力図が変わったことを表している。
倭奴国から倭王帥升が主権を奪い生口百六十人を献上して
安帝に謁見を求めたという。
同じ倭奴国を引き継いでいれば単に朝貢すればよいので
新政権だったのだろう。
その後後漢書は引き続き、
「桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無主」
となる。
帥升がクーデターを起こして倭奴国から政権を奪ったが、
周辺各国が納得せずに大乱に発展してしまったようだ。
「有一女子名卑弥呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王」
卑弥呼を共立することによって大乱は収まったようだ。
紀元後の倭国はだいたいこのような流れで
邪馬臺国(後漢書では臺が使われている)へとつながっていったらしい。
これを記紀の天孫降臨と関連付けると、
帥升が天孫瓊瓊杵尊ということになるのだろうか。
九州に上陸した瓊瓊杵尊は倭奴国王の抵抗を廃して北部九州を征圧し、
後漢安帝に承認を求めたと考えられる。