中国の史書では、周囲の民族に対して動物などの名を当てて、卑字を使った蔑称を用いることがよくある。
匈奴、夷蛮、東夷、西狄などその部類に入るだろう。
日本書紀でも乙巳の変で滅ぼされた蘇我氏が三代にわたって特徴ある名前となっている。
馬子、蝦夷、入鹿。
ある古代史の講習会に出席した時講師の先生に、
「蘇我氏の三人の名前は日本書紀の編纂者がつけた蔑称ではないですか?」
と質問したことがある。
講師は即座に、
「この三人の名前は、当時の感覚では決して悪い名前ではない。
馬は貴重なものだったし、蝦夷は強いものをあらわす言葉だった。
鹿も悪いイメージはない。」
と一蹴された。
とても納得はいかなかったが、ムキになることでもないので笑って引き下がった。
 
天智十年十一月、
白村江の戦で捕虜となっていた筑紫君薩野馬(さちやま)が唐から帰還したことが記されている。
持統四年十月条にも出てくるが、ここでは薩夜麻という字に代わっている。
天智紀では意図的に卑字を用いたが持統紀では史料に基づいてそのままの字を使ったのだろう。
馬がその当時どんなに貴重なものだったにせよ、人名に用いる時は卑字になることが多いのではないだろうか。
持統四年十月条では、薩夜麻と共に捕虜になった大伴部博麻が30年遅れて帰還してきた。
博麻は薩夜麻が帰還する時に、自分の身を奴隷として売って、主君である薩夜麻の帰還費用を捻出したという。
持統帝は博麻の愛国心と忠誠心を褒めて顕彰したという。
薩夜麻は白村江の戦いを中心になって戦った九州王朝の大王か皇子である。
日本書紀が大伴部博麻の顕彰を大きく取り上げているのは、博麻を奴隷に売ってその費用で帰還した九州王朝の筑紫君薩夜麻の非情な行為を強調するためだったともいう。
天智紀で「薩野馬」という卑字を使っているのは、前王朝の皇族をあえて蔑んで扱う
中国史書を真似た日本書紀の方針の表れかもしれない。