百済本記 56 近畿天皇家は百済三書を活用した。

日本書紀の中に朝鮮半島関係の記述がこれほど多いとは思わなかった。
神功皇后紀に記された百済記(逸文)から欽明紀の百済本記まで倭国内の出来事よりも百済及び百済の対倭国関係の記述の方がはるかに多いのではないかと思うほどだった。
おそらく倭国では文字の使用が一部の人に限られていたため十分に史料が残っていなかったのだろう。
さらに日本書紀を編纂した近畿天皇家には文字史料がほとんどなかったのではないだろうか。
したがって他の王朝の(特に九州王朝の)伝承を集めるだけ集めて近畿天皇家の歴史として焼き直したという気配が濃厚だ。
その中で百済三書は、日本が倭国時代に朝鮮半島の出来事に積極的に関与したことが鮮明に書かれているので近畿天皇家としては利用価値十分だと認識したよだ。
以前にも書いたが、
百済王は実名で出てくるのに、天皇の実名は一切出てこない。
おそらく日本書紀編纂者の手元にあった百済三書の原本には、「倭王某」のように実名が書かれていたことだろう。
百済の同盟相手だった筑紫の倭王の名前を書かずに、「天皇」と肩書だけ記すことにしたようだ。
百済聖明王が仏像や経典を献上した時にも、もし近畿天皇家の史実であるなら、
「百済王臣明、(仏教文物を)帝国(みかど)に伝え奉る」
などと言わずに堂々と、
「欽明帝に奉る」
と実名を出すべきところだろう。
さすがに偽りの述作に天皇の実名を出すことは憚られたのだろう。
欽明紀の終盤には、不時着した高麗の使者を近江でもてなしたことと、新羅に使者を派遣して任那を滅ぼした理由を問いただしたことが記されている。
 
欽明三十一年(570年)秋七月、高麗の使者は近江に到着した。
是月に許勢臣猿と吉士赤鳩を派遣して、難波津を出発し船を引き上げて狭狭波山を越え、船を飾りたてて、琵琶湖北岸まで迎えに行かせた。山背の相楽館まで船を引きいれて、東漢坂上直子麻呂、錦部首大石を派遣し、守護として高麗の使者をもてなした。
欽明三十二年(571年)春三月、坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那を滅ぼした理由を聞かせた。
 
翌夏四月十五日天皇は病の床に就き、その月に内寝で崩御した。