百済本記 ㊾ 新羅の使者、帰国できず

新羅が任那諸国を滅ぼした時に、倭国に貢物を持って派遣されていた使者がいたようだ。
使者は倭国に対して帰国を申し入れることができずに帰化せざるを得なかった。
 
欽明二十三年(562年)秋七月、新羅使者を遣わして調賦を献上した。
その使者は新羅が任那を滅ぼしたことを聞き、倭国の恩に背いたことを恥じて、あえて帰国することを求めなかった。
倭国に留まって帰らずに帰化した。
河内国更荒郡(さららのこほり)鸕(玆に鳥)野邑(うののさと)の新羅人の祖先となった。
 
「さらら郡うの邑」は、持統帝の名である鸕野讃良(うのさらら)と関連があるのだろうか。