百済本記 ㊺ 渡来人向けの屯倉を設立
本日取り上げる箇所は、必ずしも百済本記に関係があるとは言えない。
欽明紀では数少ない国内記事で、十六年七月条に続いてでてくる「屯倉」に関する記述である。
欽明十七年では帰化人の収容を目的とした「屯倉」の設立である。
この記事はこの時代に百済人だけでなく、高麗人も大勢渡来していたことを示している。
ここには何故か記載されていないが、新羅からも同様に多数の帰化人があったと思われる。
日本書紀編纂者は新羅と倭国のつながりを極力避けるようなところがあるようだ。
欽明十七年(556年)秋七月、蘇我大臣稲目宿禰等を備前児嶋郡に派遣して、屯倉を置いた。
葛城山田直瑞子を田令(屯倉の監督者)に任命した。
冬十月、蘇我大臣稲目宿禰を倭国高市郡に遣わして、韓人大身狭屯倉(おおむさのみやけ)言ふこころは韓人は百済なり、高麗人小身狭屯倉(をむさのみやけ)を置いた。
紀国に海部屯倉を置く。
一本に云はく、処々の韓人を以て大身狭屯倉の田部にす。高麗人を小身狭屯倉の田部にす。
是は韓人、高麗人を以て田部にす。因りて屯倉の号(な)とすといふ。