百済本記 ㊹ 王子恵の帰国に火君が同行した。

先日の日本経済新聞(10月29日朝刊)に、福岡市外の元岡古墳群で見つかった太刀の19文字の銘文から、西暦570年を示す「庚寅」の干支が確認されたという記事が出ていた。
欽明紀には6世紀中ごろに暦博士が渡来してきたことが記されている。
この頃の倭国では暦はまだ王朝の周辺でしか使われていなかったとみられる。
この地域は、『筑前国嶋郡川邊里戸籍』(奈良国立博物館所蔵)のエリアに近く、戸籍に出てくる「肥君猪手』の勢力範囲だったと思われる。
この新聞記事と戸籍の存在は、今日取り上げる日本書紀の欽明紀十七年条とつなげて考えると、筑紫君=火君=肥君ということになるので、九州王朝の存在が浮かび上がってくる。
 
聖明王の死を報告に来た王子恵は約1年間倭国に滞在した。
倭国の王室との関係も良く人々からも慕われたようだ。
援軍や武器、その他多くのお土産を持って帰国することになった。
この箇所に引用されている百済本記には、筑紫火君は筑紫君の児火中君の弟であると書かれている。
古事記の「神武天皇条」には火君は神武天皇の皇子神八井耳命を祖とするとある。
神八井耳命は神武天皇と皇后伊須氣余理比賣の間にできた子である。
神武天皇の崩御後、神八井耳命は弟の神沼河耳命と組んで、庶兄の當藝志美美命(日向時代の神武天皇の子)を殺害する。
その際神八井耳命は手足が震えて殺すことができず、代わって手を下した弟の神沼河耳命が綏靖天皇として即位する。
その手足が震えて役に立たなかった神八井耳命が火君の祖とされている。
神武記によると神八井耳命は、意富臣、小子部連、坂合部連、筑紫三家連(火君、大分君、阿蘇君)、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奥の石城國造、常道の仲國造、長狭國造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖となっている。
百済本記にあるように、筑紫にある王朝の王家が火君でその王朝が神八井耳命の系統であるとすると、古事記に憶病者と描かれている神八井耳命は古事記編纂者が前王朝である九州王朝の象徴として神武記に書き込んだのかもしれない。
欽明紀に引用された百済本記によって7世紀の王朝交代について推論を立ててみた。
 
欽明十七年(556年)春正月、百済の王子恵は帰国を申し出た。
そこで倭国は兵器、良馬などを多数与えることにした。
また多くの賞を授与した。
人々は(恵の人柄を)褒め称えた。
帰路には阿倍臣、佐伯臣、播磨直を同行させて筑紫国の舟師を引率し、前後を守って百済国まで送り届けた。
それとは別に筑紫火君(百済本記に云はく、筑紫君の児、火中君の弟なりといふ)を派遣し、勇士1000人で守衛して弥弖港(みてこう、慶尚南道南海島)まで送らせた。
筑紫火君には港へ続く道の要害の地を守らせた。