百済本記 ㊲ 皇子余昌、高句麗を攻撃す。

欽明十四年(553年)、聖明王の子の皇子余昌(後の威徳王)は高句麗に進撃する。
敵将に相対して名乗りあう時に余昌は、
「自分は余と言うが、高句麗の姓だ。」
と百済の王室が高句麗出身であることを明言する。
お互いに名乗りあった後戦闘に入る形が日本の武家社会に似ていて面白い。
 
欽明十四年冬十月、百済の王子余昌は高麗に向けて出兵し、百合野(黄海道黄州の蒜山か)に軍塁を築いて野営していた。
周辺は広大な野原が続き、人の気配もなく、犬の声さえ聞こえてこなかった。
そこに突然鼓を打つ音が響き渡った。
余昌は驚いて鼓を打ち鳴らして応じた。
夜を徹して守備を固めた。
翌朝まだほの暗い内に起きて広野を眺めると、青山のように敵の旗が覆い尽くしていた。
夜が明けると鎧を着た人が従者4人引き連れて5騎轡を並べてやってきた。
「部下たちが『我々の領内に客人がいるようです』と報告してきた。お迎えして礼を尽くさねばとこうしてやってきた。貴方の氏素性を教えていただきたい。」
と言った。
余昌は答えて、
「姓は扶余。位は杆率(かんそち)。年齢は29歳。」
と述べた。
百済側は同じ質問を返した。
相手は同じように答えた。
お互いに名乗りあった後、旗を立てて戦いが始まった。
百済側は鉾で高麗の勇士を馬から刺し落として首を斬った。
その頭を鉾の先に刺して味方の兵士に向って掲げた。
それを見て高麗の軍将は怒り心頭に達した。
百済軍の中に起こった歓喜の声は天地が裂けるほど響き渡った。
余昌軍の副将は鼓を打って一気に攻め込み、高麗王の軍を東聖山(平壌の東北の大聖山)に追いやった。