百済本記 ㉟

欽明十四年(553年)秋七月、天皇は樟匂宮(くすのまがりのみや)に行幸した。
蘇我大臣稲目宿禰は勅を受けて王辰爾(わうじんに)を遣わして、船の賦を数え記させた。
即ち、王辰爾を以て船長(ふねのつかさ)とした。
因りて姓を与えて船史(ふねのふびと)とした。
今の船連の始祖である。
 
ここでは百済本記に基づく記述に挿み込まれるように国内記事が登場する。
天皇は、「樟匂宮に幸す。」とある。
樟匂宮は未詳、と岩波版の注は書く。
「匂は奈良県橿原市曲川の地か」とも書いている。
例によって一字でも同じなら、根拠もなく大和の地に比定しようとしている。
「夏五月」条の仏像に造られた「光る樟木」との関連を考えるべきではないかと思う。
樟木で造られた仏像が納められた吉野寺のそばに「樟匂宮」を建造し、仏像を参拝するために出向いた、とする方が筋が通るのではないだろうか。
そう考えると、吉野寺の場所が大切になってくる。
大和の吉野か、九州の佐賀県の吉野か、あるいは・・・。
いずれにしても仏教公伝からあまり時間がたっていないので、かなり初期の寺院ということになる。
光る仏像の言い伝えがあって、「吉野寺」と呼ばれた可能性がある寺がどこかにあったに違いない、と思う。
王辰爾は「船の賦を数へ録す」役割を与えられて船連の祖となった。
岩波版は「船の賦」を難波の津の関税、あるいは港湾税の如きものとしているが、文脈からは、「百済(あるいは諸外国)からの朝貢品の品定め」をする職に就いたとは考えた方がすっきりする。