百済本記 ㉗

欽明九年六月、百済の当面の敵はいつの間にか新羅から高句麗に変わったようだ。
 
倭国天皇は百済に対して、
「その後の百済周辺の状況はどうか。高麗に侵略されていると聞いたが、任那と協力し合って以前のように攻撃を防ぐように。」
と言った。
七月、四月に来た百済の使者涼葉礼(けいせふらい)らが帰国した。
冬十月、倭国は兵士370人を百済に派遣し、得爾辛(とくにし、忠清南道)に城を築いた。
十年夏六月、百済の使者将徳久貴(しゃうとくこんくゐ)、固徳馬次文(ことくめしもん)らが帰国したいと言ってきたので、詔して、
「日本府官人(反百済派)の延那斯、麻都が高麗と密通しているかどうかの虚実を確かめている。援軍についてはそちらの要望通り、派遣せずに待機しているところだ。」
と伝えた。
 
任那日本府は百済だけではなく、新羅とも高句麗とも均等に関係を結ぶどっちつかずの外交姿勢をとっていたのだろう。