百済本記 ㉕ 高句麗の内乱 ⅱ

欽明七年(546年)是年条に高句麗の内乱の詳細が載っている。
百済本記に云はく、
「高麗、正月の丙午を以て、中夫人(くのおりくく)の子を立てて王とす。年八歳。
狛王に三の夫人有りき。
正夫人は子無し。
中夫人、世子を生めり。其の舅氏は麁群(そぐん)。
小夫人、子を生めり。其の舅氏は細群(さいぐん)なり。
狛王の疾篤するに及りて、細群、麁群、各其の夫人の子を立てむとす。
故、細群の死ぬる者、二千余人なり。」
といふ。
 
高句麗第23代国王香岡上王(安原王、あんげんおう:在位531年~545年)が死の病の床に就いた時に、外戚同士の皇位継承争いが起こった。
正妻には子がなく、第2夫人(中夫人)と第3夫人(小夫人)の一族が我が子に後を継がせようと争い、内乱に発展した。
敗れた小夫人の一族細群の死者は2千人を超えたという。
 
安原王は百済聖明王と鎬を削っていた。
540年(高句麗安原王10年、百済聖明王18年、欽明2年)、百済は高句麗領内へ攻め込み、牛山城を包囲した。
安原王は精兵5千を派遣して百済軍を撃退した。
 
欽明七年条に百済へ馬を70頭送ったという記述があるが、以上のような緊迫した朝鮮情勢が背景にあったためであることがわかる。