百済記 ⑬ 百済いったん滅亡
逸文「百済記」は応神紀二十五年(414年)直支王の死の記事から
大きく飛んで雄略紀二十年(475年)、
高句麗の大攻勢によって首都慰礼城(ソウル)が陥落し、
百済王一族が戦死、処刑されて百済が滅亡した記事となる。
百済記からの引用はここまで。
引用部分は百済が高句麗に責められて陥落したことが述べられており、
ここだけでは日本書紀に掲出する意味はなさそうだ。
しかし引用部分の前後で倭国との関連を記述している。
百済を滅ぼした高句麗は百済が再生しないように、
王の一族を根絶やしにしようという意見があったが、
百済は「倭国の官家(かんけ)」で王子を人質に出しているので、
これ以上百済を駆逐するのはやめようということとなった。
翌年、倭国天皇は首都を失った百済汶洲王に、
首都となる土地として久麻那利(こむなり)を与えて、
「其の国を救ひ興す。」と記されている。
日本書紀はあくまで百済を「臣下」として扱おうとしている。
倭の五王の宋に対する上表文でも
何度も百済を勢力下に置いた将軍にしてほしいと懇願しているが、
全て却下されている。