百済記 ⑧
神功皇后紀は百済国の史書でもないのに、倭国と直接関係のない百済王の交替の記事を載せている。
六十四年(甲申、384年)、百済国の貴須王薨りぬ。
王子枕流王(とむるおう)、立ちて王となる。
六十五年(乙酉、385年)、百済の枕流王薨りぬ。
王子阿花年少し。叔父辰斯、奪ひて立ちて王となる。
このような日本書紀の記述が大和朝廷は百済の王朝の流れを汲んでいるなどの説を生む要因にひとつにもなっているのだろう。
確かに日本の史書の本文にこのように他国の国王の交代が記述されることは異例であろう。
この条の記述は次の百済記を用いた応神三年是歳条につながっていく。
(応神三年)是歳(壬辰、392年)、
百済の辰斯王立ちて、貴国の天皇のみために失礼し。
故、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰(つくのすくね)を遣して、
其礼无き状を嘖譲(ころ)はしむ。
是によりて、百済国辰斯王を殺して謝(うべな)ひにき。
紀角宿禰等、便(すで)に阿花王を立てて王として帰れり。
ここもなぜ百済記を直接引用しないのか不審が残る。
●辰斯王が貴国の天皇に対してどんな失礼なことをしたのか。
●百済国が国王を殺さなくてはならないこととはどんなことなのか。
●倭国の使者が百済王を立てることができるような両国の関係だったのか。
●派遣された4人の宿禰の名前が百済記に本当に載っていたのなら、直接引用した方が効果的なのではないだろうか。
●やはりここでも天皇名は明記されていない。 (天皇名以外は全て実名)
貴須王の死後384年から392年の8年間に、枕流王、辰斯王とつなぎ阿花王まで、
短期間に国王が目まぐるしく交替したことは三国史記などの記述とも一致している。
(To be continued)