百済記 ④

神功皇后摂政五十年ではますます書紀編纂者の筆は滑ったようだ。
日本書紀岩波版の注も、
「日本の(百済に対する)徳化を称える観念的な話」
として、史実とは無縁なことを断定している。
さらに、
「最後の多沙城(の百済への割譲)も6世紀ごろの有名な史実を過去に投影したものでオリジナルな史料に基づくものは何もない。」
と切り捨てている。
話の概要は以下の通り。
 
五十年(370年)5月、千熊長彦が百済の久氐を連れて戻ってきた。
皇太后は久氐に、
「百済には多くの領土を与えたのに、何の用があって来たのか」
と問いかけた。久氐は、
「百済王(肖古王)は日本からの恩恵に対して大変喜んでいます。至誠を尽くして後の世に至るまで朝貢を続けると申しています」
と述べた。
皇太后はその言葉を聞いて来意を納得し、久氐の往復の労をねぎらうという名目で多沙城を割譲した。
五十一年(371年)3月百済王は久氐をまた派遣してきた。
皇太后は太子と武内宿禰に、
「私が親交を結んでいる百済は天からの授かりものだ。珍しいものもあまりない貧しい国だがしばしば朝貢してきて誠意がある。私が死んだ後も同様に恩恵を与えるようにしなさい。」
と述べた。
その年(371年)久氐の帰国に付き添わせて千熊長彦を百済へ派遣した。
皇太后は、
「私が神の導くところに従って海の西を平定し、百済に割譲した。今また友好関係を結び末永く寵賞しようと思う」
とおっしゃった。
そのことを伝えると、百済王と皇子は
「貴国の恩情は天地よりも重い。永遠に忘れません。聖王は天上にあって日月のようです。我々は下に侍って山のように動かぬ気持ちで、永遠に西蕃となって裏切ることはありません。」
と述べた。
 
千熊長彦と久氐の日本と百済の高官が両国を行ったり来たりして、百済は日本への忠誠を誓い、日本の皇太后は百済の朝貢の誠意を受けて満足しているさまが繰り返されている。
 
(To be continued)