百済記 ①

日本書紀は神功皇后摂政四十六年条から六十五年条まで、
「百済を主とする対朝鮮交渉記事。
百済記を史料とし、かなり自由な筆致で構文したもの。」(岩波版、脚注)
四十六年条では、斯摩宿禰が卓淳国
(とくじゅんこく、慶尚北道大邱にあった加羅諸国中の一国、現在は大丘県)
へ派遣された時の記事。
卓淳国に行くと国王の末錦旱岐(まきむかんき)から、
「二年前に、百済から三人の使者が来て、
日本に朝貢したいが行き方がわからない。
教えてくれないか、と尋ねられた。
こちらからは東方に日本があることは知っているが、
我々も行ったことがない。
海の向こうの遠いところにあり波が嶮しいので、
大きな船がなければ行けないだろうと言った。
使者は国へ戻って船を用意してから行くことにしようと言っていた。」
と聞かされた。
その話を聞いた斯摩宿禰は、
同行していた爾波移(にはや)と卓淳人の過古の二人を百済国に遣わした。
百済国の国王肖古王は大変喜んで絹や鉄などを爾波移に託した。
 
日本と百済の交渉が、
百済の肖古王(在位:346年~375年)の時から始まったことを記した
貴重な記録である。
(ここでは日本貴国という書き方になっている。倭国とは別の国のことか。)
この記事は神功皇后摂政前紀の
「高麗、百済が、
『今より以後は(倭国に対して)永く西蕃と称ひつつ、朝貢絶たじ。』
と言った。」
という記事と相容れないように見える。
日本と倭国の使い分けをしているからだろうか。
 
(To be continued)