百済三書の重要性

日本書紀の神功皇后摂政紀は、
摂政十三年条の豊宴(とよのあかり)の説話で、
神功皇后にかかわる物語はすべて終了している。
十三年条の後は一挙に三十九年条まで飛ぶ。
三十九年条は「是年、太歳己未(つちのとひつじ)」、
異例の太歳表示で始まる。
(通常日本書紀では天皇即位記事の段落末に太歳干支が表記される。)
太歳表示の後、
「魏志倭人伝」の卑弥呼の朝貢記事が引用される。
神功摂政三十九年は、
魏の明帝の景初三年で、
西暦239年のことですよ、
と教えてくれている。
ここまで神話、説話で展開されていた日本書紀が、
にわかに史実性を強めてくる。
四十年条、四十三年条と「魏志」からの引用が続き、
『神功皇后とは実は魏志に出てくる女王卑弥呼のことなのです。』
と宣言していることになる。
四十六年条になると、
今度は『百済記』を史料として構成したと思われる記述が出てくる。
六十五年条まで百済との交渉記事が続く。
六十二年条ではじめて、
「百済記に云はく、」と出典を明らかにして、
『百済記』から直接引用した形で記述される。
ここをはじめとして欽明十七年まで、西暦で言うと557年ごろまでの
約200年間の倭国と百済国の交渉記事が
『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』の
百済三書によって紹介されることになる。
この百済三書は日本書紀に逸文が残されているだけで、
すでに失われてこの世に存在しないという。
日本書紀には倭国関連の記事のみ紹介されているが、
それだけでも貴重なことである。
日本書紀にとっても、
「削偽定実」の大義名分のもとに
近畿天皇家の自慢話に終始する可能性のあった日本書紀が、
百済三書を引用したことで
辛うじて史書として成立することができたと言えるのかもしれない。
 
(To be continued)