「謎の4世紀」のアジア情勢をもう一度整理する。
「謎の4世紀」に大陸から多くの人々が渡来したのではないか、
という仮説はすでに述べた。
改めて自分なりに整理しておきたい。
というのも、このあたりの出来事が大和朝廷の出自や
大和朝廷に先んじて、あるいは同時に存在した他の王朝について
理解するために重要なことだと思われるからである。
当時の航海技術がどれほどのものであったかは知る由もないが、
朝鮮半島の南端から日本列島の海岸に到着することは
それほど容易なことではなかったと推測される。
かなりの危険を覚悟して決行しなければならなかったことだろう。
言い換えれば、日本が温暖で実りが多い住みやすそうな所
というくらいの動機で渡海するほど容易ではなかったに違いない。
中国大陸、朝鮮半島が戦争の渦中にあったとか、
どうしようもない飢饉に見舞われていてこのままではとても生きていけそうもない、
という状況があって初めて海に出て流れ着いたところで生活しようとか、
日本海を交易の場としている海士族に頼み込んで
運んでもらおうとしたのではないだろうか。
4世紀になると三国志の時代を制した魏王朝、
魏から禅譲を受けた西晋朝が東アジアを支配していた時代が終わり、
五胡十六国の戦乱の時代に入っていく。
朝鮮半島でも、鮮卑族や高句麗族が抗争を繰り返しながら南下しようとし、
半島南部でも辰韓、弁辰、馬韓などの諸国統一し始めた新羅、百済、加羅が
勢力を強めて争いに加わっていったようだ。
中国が朝鮮半島を支配していた時代に住みついていた中国人たちは
コロニーを作って生活していたが戦乱に巻き込まれることを避けて
日本へ向けていち早く渡来し始めたようだ。
朝鮮半島経由で渡来した中に中国人を自称する人がいたという。
倭国は加羅(あるいはその一部)を支配していたようで、
高句麗の南下を受けて新羅、百済などと勢力争いを繰り返すようになっていた。
日本書紀の神功摂政紀、応神紀に引かれている百済紀(逸文)は、
以上のような情勢を背景にして百済が高句麗、新羅と争うために、
倭国に協力を求めてきた事情が記述されている。