上淀廃寺跡(米子市淀江町)

今回の山陰旅行でこの地域が弥生時代において、
他に先駆けて大陸の影響を受けていたことを実感し続けた。
予想していたこととはいえ一見した納得ははるかに百聞をしのぐものだった。
その中にあって初期の仏教文化伝来を伝える上淀廃寺が美保湾に面した
米子市淀江町のこの地に立っていたということについては
まだ頭の整理がつかず、ことの重要性がよく理解できないでいる。
金堂と3基の塔のある伽藍配置で、
堂内には巨大な3尊像をはじめ多くの仏像を安置し、
内壁には仏教壁画が描かれていたという。
「癸未年」と書かれた瓦が見つかったことから
天武12年(683年)に建てられたものと推定されている。
(もう1周期早くするとほぼ初代法隆寺の建立とほぼ同じ頃になってしまう。)
金堂及び中・南塔の基壇の造り方は百済の寺院に見られる様式だという。
屋根瓦のうちの軒丸瓦の単弁十二弁蓮華文様は新羅の影響があるらしい。
 
上淀白鳳の丘展示館で学芸員の伊藤さんの話を聞くことができた。
「上淀廃寺は20年ほど前に発掘された日本最古クラスのの仏教寺です。
平城京遷都の30年前天武天皇の時代(683年)に建立されました。
ここには仏像が釈迦如来像として復元されています。
本来は両脇に菩薩像があり、
来年4月には三尊像として復元されることになっています。
創建から平安時代中期(11世紀初頭)に焼失してしまうまで、
建て替えは一度もしていません。
奈良時代に大規模な補修がなされたことがわかっています。
仏像はその時にこのような大きなものになったようです。
この施設はこの寺の奈良中期の姿を復元しています。
建物は創建時(白鳳期)のまま仏像は奈良時代ということで、
上淀廃寺の歴史が凝縮した形で見れるようになっています。
仏像は白で再現していますが、
元々は衣服は赤、髪は群青色に着色されていました。
土でできた塑像です。
金属製の仏像は天皇および大臣クラスの豪族が発願した時のみ許されたので、
ここでは塑像になったわけです。
壁画は断片がたくさん出てきましたが、
復元できたのが釈迦説法図だけだったので同じ絵を連続して使って復元しました。元は釈迦の生涯などの説話を描いていたものと思われます。」
 
上淀廃寺遺跡は、1,000年の間水田の下に埋もれていたものが
たまたま発掘されたものでこの近辺から同様な遺跡が
今後発掘されるかもしれない。
大陸に面した山陰の地に7世紀以前の時代に
すでに華やかな仏教文化が浸透していた可能性を否定できない。
 
(To be continued)