妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)

「山島に依りて国邑をなす。」
魏志倭人伝では倭人の住んでいるところには昔は百余国、
今でも使訳の通じる国は30国ある、と書かれている。
その情景にふさわしい遺跡が10年ほど前に発見された。
妻木晩田遺跡である。
鳥取県の大山の北西にある考霊山の北側一帯にわたって
172haの範囲に展開している。
東京ドームが40個入る大きさで、
吉野ケ里遺跡の2倍以上になるという。
雨の中でガイドをしていただいた木村さんの話によると、
「妻木晩田遺跡は今から2000年から1700年前の弥生時代後期の遺跡です。
住居跡(竪穴住居)が400棟、それ以外の掘立柱建物が500棟、
合計900棟の建物跡が出てきました。
住居には男女別々に平均して5,6人で住んでいたようです。
(ある人が、徐福伝説に男女が別々に住んでいたというのがあると言っていた。)
はじめは50人くらいで住みはじめて
AD200年頃最大の人口になり
その後の100年でだんだん減って最後は90人くらいになり
他の地に移転していったと思われます。
住居のそばには貯蔵穴があり炭化米、栗、どんぐりなどを貯蔵していました。
鉄製品が数多く出土しています。
九州を除けば本州では最も多く470点以上になります。
武器が少なくチョウナ、ヤリカンナ、オノなど農耕に使用する道具が多く出ました。
青銅鏡も3枚。1枚は中国製の花紋鏡です。」
この遺跡の最盛期は3世紀初めの頃のようで、
まさに邪馬壹国に卑弥呼がいたころと一致する。
魏と交流のあった30か国のうちの一つである可能性は
極めて高いと言えるのではなかろうか。
ガイドの木村さんは数多く出土している土器について
九州系の土器が多いと何度も強調していた。
邪馬壹国とのつながりを意識していたのかもしれない。
妻木晩田遺跡のパンフレットの表紙のキャッチフレーズが
「甦る弥生の国邑(よみがえるやよいのこくゆう)」で、
魏志倭人伝の記載を強く意識している。
 
(To be continued)