柿本神社

史跡を訪ねる旅は現地にいる間は
目の前の事物や風景を眺めることに夢中になっているが、
帰宅して関連する本や資料を見ると
事の重要性を改めて認識して
もっとよく見ておくべきだったと後悔するのが常である。
 
今回の旅の大きな目的の一つは
柿本人麿ゆかりの地を訪ねることにあった。
全国に105社あるという柿本神社のうち
山口県に36社、島根県に9社あるという。
そのうち次の4社を訪問した。
人丸神社(萩市大字椿東)
戸田柿本神社(益田市戸田町)
高津柿本神社(益田市高津町)
都野津柿本神社(江津市都野津町)
 
石見国にゆかりが深いとされる人麿の生誕と終焉の地については,
諸説あって難解な問題となっているようだが、
戸田柿本神社で神主の綾部正氏の話を聞くことができた。
戸田柿本神社は代々綾部家で神主を続けており、
綾部正氏は第49代に当たる。
「柿本人麿の生誕、終焉の地については諸説あります。
ここは生誕の地。隣の高津柿本神社は終焉の地と言われています。
生誕の地を主張している場所は他にもたくさんありますが、
ここには全国どこにもない伝承が二つあります。
ひとつは当地を支配していた小野族の支援に柿本族がやってきた。
その時に柿本氏に語家(かたらい)として綾部家が随行してきた。
ここで柿本氏と語家綾部家の女性の間で一男儲けた。
それが人麿だった。
もうひとつは、孝徳天皇ご即位9年、
7~8歳の神童が突然柿の木の下に出現した。
これを語家の老夫婦が養育した。
その柿の木の2代目が今も境内にあります。
初代は一部を保存して蔵にあります。」
綾部家では代々口承で伝わってきたことを、
約500年前、第29代の時から
後世に文字をもって残すということとなり古文書が残っている。
人麿生誕の地として今に至るまで伝わってきているという。
 
柿本人麿終焉の地については、
辞世の句
 
鴨山の 岩根しまける 吾をかも 
        知らにと妹が まちつつあらむ
 
あるいは妻の依羅娘子(よさみおとめ)が人麿が死んだ時に作った、
 
今日今日と 我が待つ君は 石川の
        貝に交じりて ありといはずやも
 
などの歌の中に読み込まれた地名などを手掛かりに
場所の特定が試みられている。
齋藤茂吉や梅原猛の研究が有名だ。
古田武彦は辞世に読み込まれた鴨山は
現在の浜田城山であるとする。
浜田城山はかつて鴨山と呼ばれていたことがわかっている。
周辺に住んでいる人に聞くと今でも鴨山と呼ぶ人もいるらしい。
浜田城のふもとを流れる浜田川はかつて石川と呼ばれており、
依羅娘子の作歌と符合している。
齋藤茂吉の江の川・湯抱説、梅原猛の鴨島沈没説よりも、
石見国の中心の浜田城を終焉の地とする
古田武彦の説に説得力を感じた。
 
(To be continued)