火の山公園、忌宮神社

3泊4日の山陰旅行に参加した。
訪問地は山口県、島根県、鳥取県3県にまたがり
到着した山口宇部空港から最終訪問地の出雲まで
現地の総移動距離は450㎞を超える大旅行となった。
旅行のテーマは「柿本人麿ゆかりの地を訪ねること」、
「古代王朝と産鉄の出雲訪問」がメインだったが、
途上の「仲哀天皇の豊浦宮(とよらぐう)、弥生遺跡、物部神社などを
見学することができて盛り沢山な充実した内容だった。
 
●火の山公園
山口宇部空港に午前11時頃到着し最初に向かったのは
天智紀に出てくる「長門城(ながとのき)」の候補地とされる
下関市椋野の火の山公園。
長門城の候補地としては、
「城山」説(吉田東吾)、「茶臼山」説(中村徳美)などがあるが、
御園生翁甫は長府の南方に聳え瀬戸内海・響灘・九州を俯瞰できる
「火の山」説を主張した。
火の山公園では、
ゆっくり回転する展望レストランから360度眺望ができ、
軍事的な重要性を感じることができる。
長門城としてふさわしい要件を備えているように思えた。
 
●忌宮神社 : 仲哀帝は熊襲を撃破していた。
仲哀天皇の豊浦宮跡とされる忌宮神社では宮司さんの話を聞くことができた。
「忌宮神社のご祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の3柱。
元々は仲哀天皇だけだったが、
聖武天皇の時に神功皇后と応神天皇が加えられて
八幡宮と同じ祭神になった。
忌宮神社には仲哀天皇に関する説話として記紀にはない話が伝わっている。
豊浦宮に新羅の塵輪が熊襲を煽動して攻め寄せてきた。
皇軍も奮戦したが宮門は破られて武将が相次いで討ち死にした。
仲哀天皇は自ら弓矢をとって塵輪を射倒した。
塵輪の首を埋めてその上に石を置いた。
その石が鬼に似ていたので「鬼石」という。
その鬼石は今でも境内で見ることができる。」
この宮司の話は記紀の仲哀天皇の印象とかなり異なっている。
こんな逸話があるのになぜ記紀には掲載されていないのだろうか。
近畿天皇家の先祖の武勇伝を
記紀の編纂担当者が勝手に熊襲に射殺された弱い天皇と
誤解されるように変更することは許されることではない。
考えられることは大和に足跡の全くない仲哀天皇は
近畿天皇家の天皇ではなく他の王朝(たとえば九州王朝)の大王で
新羅・熊襲軍と鎬を削っていた、
ということが実際にあったのかもしれない、ということ。
神功皇后は仲哀天皇の死後新羅遠征に向かい凱旋するが、
持ち帰った満珠・干珠の如意の珠を納めたところが満珠島、干珠島。
神社から眺望することができ、
両島合わせて豊浦の島として崇められている。
 
(To be continued)