東アジア情勢と神功皇后紀
日本書紀の記述と東アジアの情勢から考えると、
「謎の四世紀」に日本列島に大陸から多くの人が移住し、
中国文明を伝えたことがうかがえる。
西晋朝の末期に起きたクーデターに触発されて、
300年 八王の乱 勃発
311年 五胡十六国の乱始まる
・匈奴族の劉淵率いる一族が洛陽を占領
・鮮卑族の酋長慕容廆(ぼようかい)、東北部から遼東群にかけて支配
楽浪二郡の将軍張統慕容廆のもとに亡命
⇒張統が退去した楽浪郡に後の高句麗が南下してくる。
337年 慕容廆の息子慕容皝(ぼようこう)、燕王となる。
342年 慕容皝、高句麗の王都を攻撃
369年 高句麗南下し百済を攻める
百済王、倭国と同盟条約結ぶ
370年 前燕滅亡
371年 高句麗再度南下
372年 百済肖古王、東晋に朝貢
377年 高句麗と新羅、前秦に朝貢
391年 高句麗、広開土王即位
一方日本書紀では、
神功皇后摂政46年(366年、以下西暦のみ)
斯摩宿禰を卓淳国に遣わす。
斯摩宿禰は卓淳国も百済国も倭国の存在は知っているが、
行き方がよくわかっていないことを聞く。そこで百済に使者を派遣する。
百済王は肖古王で、そのことをきっかけにして交流が始まる。
367年 百済は倭国に使者を送り貢献しようとするが途中新羅にさえぎられて
貢物を横取りされる。
新羅は横取りした貢物を自国の貢物として倭国に持ち込む。
事の真相を糺すために命を受けた武内宿禰は
千熊長彦を新羅に派遣した。
368年 荒田別、鹿我別を将軍として派遣し、新羅を撃ちて破る。
七国を平定。
372年 百済、倭国に七支刀、七子鏡などを貢献。
神功皇后摂政四十六年から六十五年条まで、
百済記に基づいて百済との交渉記事を掲げている。
建国間もない百済と倭国の交渉の史実が、
多少の述作を加えて記されているらしい。
七支刀は、東晋の太和四年(369)に、
百済王近肖古王の世子貴須から倭王に贈られた。
高句麗の南下に苦しむ百済が倭国との友好関係を
維持しようとするための貢献物だった。
西晋までの時代は帯方郡、楽浪郡が置かれ、
朝鮮半島は統一中国の傘下にあったが、
五胡十六国の乱が始まると、
朝鮮半島の小国がまとまって新羅、百済などの国家が誕生した。
国家同士は勢力を争い非常に不安定な状況が続くことになる。
北方で鮮卑族(燕)と争っていた高句麗が南下を始めると、
情勢はますます緊迫度を増していったようだ。
そんな状況の中で、百済と同盟関係を結んだ倭国も参戦する。
(To be continued)