邪馬壹国 ②
卑弥呼は魏が公孫氏を滅ぼすと、
景初二年(238)大夫難升米等を帯方郡へ遣使し、
魏の皇帝への朝貢を申し出る。
その後卑弥呼は、
正始元年(240) 答謝
正始四年(243) 使大夫伊声耆掖邪狗等
正始八年(247 )載斬鳥越等
定期的に郡あるいは京都に使者を遣じている。
日本書紀神功皇后摂政六十六年に引用された「晋起居注」には、
「武帝泰初二年(266)倭女王譯を重ねて貢献す。」
と出てくる。
卑弥呼の後に男王ではやはり国内が治まらないので、
女王となった壹与も引き続き西晋朝に朝貢を続けた。
その後も晋書・帝紀によると、
276年から291年にかけて東夷諸国は頻繁に朝貢を繰り返している。
東夷諸国の中に倭国も入っていることはいうまでもない。
291年、西晋朝では勢力争いが起こり、ついに宰相張華がクーデタを起こす。
西晋朝の統率力は失われていき、
「八王の乱」から「五胡十六国の乱」へと混乱の時代へ入っていく。
中国史書をたよりとしている日本古代史の研究にとって、
291年以降は倭国に関する信頼できる記述が残っていないため、
「謎の四世紀」などといわれるようになる。
次に倭国の記事が出てくるのは413年になってからである。
(To be continued)