【日本武尊のモデルは天武天皇だった】
 
「(朱鳥元年六月)戊寅に、天皇の病を卜うに、草薙剣に祟れり。
その日に、尾張国の熱田社に送り置く。」(天武紀)
日本武尊の遺品であるはずの草薙の剣が熱田神宮に納められたのは
天武天皇の死の直前だった。
天武天皇は草薙の剣を熱田神宮に納めたにもかかわらず、
9月に崩御する。
日本武尊の説話は日本書紀には二つ出てくる。
九州遠征の熊襲征伐と東方遠征。
九州遠征の方は景行帝親征の物語とほとんど同じ内容で、
どちらも九州王朝の話を基に、主人公の名前を変えて焼き直したものだろう。
日本武尊は九州遠征に4人の家来を連れて行く。
美濃の弟彦公(おとひこのきみ)
伊勢の石占横立(いしうらのよこたち)
尾張の田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちぢかのいなき)
美濃、伊勢、尾張と関係が強いことが示されている。
東方遠征においても、日本武尊は伊勢神宮を拝して、
東国(駿河、相模、上総、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、
信濃、美濃、尾張)を巡回した後、
尾張氏の娘宮簀姫(みやすひめ)と結婚し、
伊吹山で山神に傷つけられて下山し、
伊勢に戻ってそこで力尽きて死んでしまう。
以上二つの物語において、
美濃、伊勢、尾張の3国との関係が強調されている。
天武帝は天智帝の死後、大友皇子との関係が急に緊張し
壬申の乱が勃発するが、
先ず三人の部下を美濃に急行させて軍隊を集める。
その後吉野から伊勢に入り天照大神を望拝する。
そして尾張の軍隊2万人と合流して大友皇子を滅ぼす。
このように日本武尊は天武帝と同様に
美濃、伊勢、尾張と強い関係をもちながら大業を成就している。
岡田英弘は、
「日本武尊は古くから語り伝えられた伝説の主人公ではなく、
天武天皇の影として、7世紀末になって新たに創作された人物なのである。」
と断定している。