【景行帝の九州遠征はなかった。】
 
崇神帝は四道将軍を派遣することによって、勢力拡大を図った。
その2代後の景行帝は自ら出陣し、遠路はるばる
九州南部まで遠征を行ったことになっている。
「(十二年)八月の乙未の朔己酉に筑紫に幸す。」
景行12年(317年か)、大和から筑紫に親征を行ったという。
景行帝は手ごわい熊襲を相手に真っ向勝負をせずに、
頭脳作戦を採用したようだ。
熊襲の王女をだまして、父熊襲梟帥(くまそたける)を
裏切らせることによって熊襲征服に成功した。
熊襲勢力一掃後、
「十九年の秋九月の甲申の朔癸卯に、天皇、日向より至りたまう。」
景行12年に出発して、景行19年に帰路に就いたことになる。
いったいこの遠征の7年もの間中央の大和では天皇不在のまま
どうやって政治が行われていたのだろうか。
仮に2倍年歴で数えたとしても、3年半首都を離れていたことになる。
岡田英弘は、この景行帝の熊襲征伐について、
「史実らしいところは全然ない。
これはもともと日向国造家の祖先伝説だったものを改作して、
大和朝廷の王の話に仕立てたのだろう。」
と述べている。
古田武彦は有名な「盗まれた神話」の中で、
この景行帝の九州遠征について明確な見解を述べている。
古田はこの親征について、『5つの謎』を挙げている。
①九州遠征なのに南九州ばかり攻撃して、
 中心の筑紫には全く行っていない。
②九州東・南岸に対しては「討伐」、九州西岸は「巡狩」としており、
 筑紫も肥国もすでに安定した勢力圏として描かれている。
③遠征の終着点「浮羽」から一気に阿蘇山を越えて、
 「日向」まで移動して帰路についている。
④地名が景行紀の他の部分(日本武尊の遠征譚など)に比べると、
 かなり細かく詳細に出現する。
 地理に詳しい人が書いたと思われる。
⑤これだけの大遠征が古事記には一切出てこない。
以上の5点の謎を指摘することによって、
この説話は筑紫を原点とする「九州王朝の説話」を
登用したものに違いない、と断定している。
 
岡田、古田両氏の説明で明確なように、
大和を7年間も留守にした景行帝の九州遠征は、
架空の話と言わざるを得ないだろう。
 
(To be continued)