【稲城の悲劇】
 
日本書紀の説話が7世紀の政治事情を反映している例として、岡田英弘は「垂仁紀」の狭穂彦王、狭穂姫(皇后)兄妹の反乱の物語を取り上げている。
狭穂姫は誉津別命を生んだが、皇子は大きくなっても口がきけなかった。
狭穂姫は兄の狭穂彦から夫の垂仁天皇暗殺をもちかけられる。
クーデターで狭穂彦は皇位を簒奪しようとしたのだった。
ある日、狭穂姫は膝枕で昼寝をしている天皇を殺そうとしたが、土壇場で勇気が出ずに涙があふれてきて、天皇の顔の上に落ちた。
目を覚ました天皇に兄の計画を打ち明けてしまう。
垂仁天皇は謀反心をもつ兄狭穂彦を攻撃させた。
狭穂彦は稲城を造り防衛線にして応戦した。
狭穂姫は誉津別命を抱いて稲城に入った。
垂仁天皇は稲城を焼き、狭穂彦、狭穂姫は城中で死んだが、誉津別命は救出された。
誉津別命は成人してもものを言わなかったが、ある時、白鳥が空を飛ぶのを見て言葉を発した。
天皇の命で鳥取造が出雲(一説には但馬)まで追って、白鳥を捕えて持ち帰ってきた。
誉津別命は白鳥と遊ぶうちに言葉が話せるようになった。
 
以上の説話は、狭穂彦、狭穂姫の反乱の顛末と、誉津別命と白鳥の話の2部構成になっている。
 
狭穂彦、狭穂姫の反乱の顛末譚は、7世紀の政治情勢に照らし合わせて考えると、
皇后の同母兄弟に皇位継承権はないと言おうとしている。
皇極天皇の後を継いで弟の孝徳天皇が即位したが、この即位そのものが不法だったということ、これがこの説話の教訓であると、岡田は解釈している。
日本書紀では孝徳紀『即位前記』で、母の皇極帝から即位を進められた中大兄が、
中臣鎌足の忠告で、
「兄(異母兄)の古人大兄がいるのに、ここで即位することは得策でない、ここはひとまず叔父(孝徳天皇)に皇位を譲りましょう。」
と、孝徳天皇を即位させる。
その後中大兄は、出家して吉野に退いた古人大兄を謀反の嫌疑で攻め滅ぼす。
その後、斉明天皇(皇極天皇が重祚)をはさんで地ならしを終えた後、天智天皇は即位することになる。
 
岡田の言うように、ここであえて孝徳天皇の即位を否定しているとしたら、難波に置き去りにされて不幸なイメージの強い孝徳天皇に対して、さらに泣きっ面に蜂のような扱いをするのは何故だろうか?
孝徳帝の即位を認めると、中大兄によって非業の死を遂げさせられた
有間皇子の皇位継承権を認めることになり、
すでに過去のこととはいえ、
名歌を残して根強い人気のある有間皇子に対する人々の
「もしかしたら」という可能性を消し去りたい気持ちを
天武帝、持統帝が持っていたということになるのかもしれない。
 
もう一つの誉津別命の説話は7世紀に戻すどういう意味があるのだろうか?
天智帝の后の遠智娘(おちのいらつめ)は大田皇女、持統帝、建皇子を
産んだが建皇子は唖でものが言えなかった。
祖母の皇極=斉明帝はこの皇子を特別に可愛がり、
建皇子が8歳で亡くなると、
「私が死んだら、この子と一緒に葬るように」と命じたという。
誉津別命がものを言えるようになった説話は
建皇子を悼み、満たされなかった願望を遠い昔の時代に
実現するために書かれたもので、
7世紀の現実の投影だったと岡田は述べている。
 
(To be continued)