【壬申の乱:日本書紀と万葉集の記述の相違】

『日本書紀』巻第二十八天武天皇紀上は壬申の乱の顛末を記している。

『万葉集』199番歌は柿本朝臣人麻呂が高市皇子を偲んで作った挽歌だが、壬申の乱での高市の活躍が描かれている。

『日本書紀』は壬申の乱に勝利した大海人皇子側の正当性を描くことを目的とし、『万葉集』は宮廷につかえていた人麻呂が太政大臣高市皇子の早世を悼む歌の中で壬申の乱における活躍を中心に詠だ『万葉集』の中で最長(句数が最も多い)の長歌であり、二つの史料はそれぞれ別の目的をもって壬申の乱を描いている。

両書の記述を比較し、相違に注目して見ていこうと思う。

 

【季節の相違に注目した古田武彦】

『日本書紀』では、壬申の乱は22日に開始し、23日に終了している。

旧暦なので夏から秋にかけての戦いである。

『万葉集』では、「冬こもる 春去り来れば」、「冬こもり 春野焼く火の 風の共 靡くが如く」、「み雪降る 冬の林に」、「大雪の乱れて来たれ」、「春鳥のさまよいぬれば」などの句が詠みこまれていて、明らかに冬から春にかけての季節を表現している。

古田武彦は、万葉集199番歌の壬申の乱が天武紀と季節が異なっていることに注目し、著書『壬申大乱』の中で、「それ故、この長歌を中心とする一連の四首歌(199202番歌)は、全く壬申の乱などを歌った歌ではありえない。」と述べている。

 

【古田武彦の結論】

結論として、古田は万葉集199番歌は天智2年3月、白村江の戦いの前に行われた倭国と百済の連合軍が新羅と唐の連合軍と戦った「州柔(つぬ)の戦い」の状況を歌ったものであり、壬申の乱を扱った歌として万葉集に盗用したとしている。

詳細は『壬申の大乱』をお読みいただきたいが、季節以外にも「州柔の戦い」であることの根拠として、歌中のいくつかの言葉の分析をしている。

「百済の原」、「狛釼 和射見我原(高麗剣 和蹔が原)」、「吾妻の国」、「明日香」の考察によって近畿での戦いではなく朝鮮半島内での戦いであることを論証している。

 

【古田説に対する疑問点】

いつも綿密な分析によって水の漏れる隙もないような論証をする古田だが、ここでは大前提に大きな疑問を感じざるを得ない。

日本書紀によると「州柔の戦い」が開戦したのは天智二年三月、太陽暦に直すと4月のことである。

さらに倭国・百済軍が優勢で6月には新羅の二つの城を攻略して進軍したことが記されている。

古田はこの戦いで倭国の「明日香皇子」が戦死したとするが、百済国内部での仲間割れ(百済王豊璋が宰相の福信を処刑)のことが描かれているのみで倭国皇子の戦死に触れてはいない。

「州柔の戦い」が太陽暦だと4月から7月、すなわち夏から秋にかけて行われていることと、倭国の皇子が戦死するような状況ではなかったことから古田説に素直に従うことはできないのである。

 

To be continued