【行程文の再解釈】

魏志倭人伝は、

魏使(帯方郡使)が倭国を訪れる時の行程文を冒頭に載せている。

倭人伝を最後まで読むと、

帯方郡使は何度となく倭国を訪問していることがわかる。

行程文には邪馬壹国に至るまでに九つの国が登場している。

古田武彦氏は行程文の中に動詞+至国名となっている場合は

実際に訪れており、

動詞が省略されている場合は其国の存在を伝聞で知ったと解釈した。

一度だけの訪問であればそのような解釈が成り立つが、

何度も訪れているのなら、

倭人伝では動詞が使われていない国にも訪れることがあったであろう。

そのことを前提にして、もう一度、

帯方郡使が邪馬壹国を実際に訪れたことがあったかどうかを検討してみたい。

 

【帯方郡使は複数回倭国訪問していた】

魏志倭人伝には、

全体の解釈のために重要な要素を含むフレーズがある。

伊都国に関する記述だ。

 

「東南に五百里陸行すると伊都国に到達する。 

中略 

(伊都国には)代々王がいるが、皆女王国の支配下にある。

帯方郡からの使者が往来するときには常に滞在する場所である。」

 

帯方郡からやってくる魏に使者は、

来るたびにいつも伊都国に滞在していると明記されている。

訪問の頻度はわからないが

帯方郡からの使者は何度も女王国を訪れていることがわかる。

さらに倭人伝の後段には次のように記されている。

「女王国より北には、特に一大率を置いて検察している。

諸国はこれを畏憚している。(一大率は)常に伊都国で政務を行っている。

魏における刺史のような役職である。

(倭国の)王が使者を魏の都や帯方郡、諸韓国に派遣する時、

及び帯方郡の使者が倭国へやって来た時には、

皆 港で(一大率に)検査される。

文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、

手違いは許されない。」

ここでも倭国と帯方郡の間では頻繁に交流があったことが記されている。

倭国からの使者も帯方郡からの使者も

港で一大率から検閲を受けなければならない。

一大率は税関のような役割も果たしていた。

 

以上の文章から帯方郡使は何度も渡海して倭国を訪れていたことがわかる。

倭人伝に記された行程は、

魏の帯方郡にとっては十分認識されたものだったということ。

始めて倭国を訪れた使者がたどった足跡ではなく、

帯方郡使が倭国を訪れる時にはいつもたどっていた道のりだった

と解釈することができる。

言うまでもないことだが、

三国志の著者である陳寿は帯方郡の記録によって倭人伝を書き上げている。

 

【魏の時、倭人は里を知らなかった】

行程の中の距離表示には、

「千余里」のように里で表されているものと

「水行二十日」のように移動に必要な日数で記されているものがある。

『隋書』俀国伝には、

魏の時代に「夷人不知里数、但計以日」と記されている。

「夷人」は「倭人」のことと解釈できる。

この記事と倭人伝の記事を合わせると、

倭人伝において里数で記されている部分は

帯方郡使が実際に訪れた場所で自ら里程を計測しており、

日数で記されている投馬国と邪馬壹国までの距離は

倭人から伝聞であると解釈することができる。

このような考え方に立っても、

帯方郡使が卑弥呼の元まで到達していないことには変わりはない。

さらに倭人伝は卑弥呼について、

「自為王以來少有見者」 

「王となってから、朝見のできた者はわずかである。」

と記しており、

卑弥呼についての見聞記事がないことも

帯方郡使が邪馬壹国に到達していないことの傍証になるのである。