【白村江の戦い前夜まで】
・百済滅亡
(斉明紀六年(660)七月条 『日本世記』引用、
三国史記義慈王十六年三月条など)
・百済復興
斉明七年(661)四月条、鬼室福信の使者が筑紫訪問、王子豊璋の帰国を申請。
七月二十四日条、斉明天皇崩御。
八月条、百済救援軍として、前軍(将軍大花下阿曇比羅夫大連)・
後軍(大花下阿倍引田比羅夫臣)を派遣、
その後五千人の護衛兵を付けて豊璋帰還。
天智元年(662)三月条、唐・新羅軍に攻撃される高句麗から援助要請、
百済に派遣している軍を䟽留城に駐留させて
唐及び新羅軍の高句麗への侵入を防いだ。
五月条、豊璋即位。高句麗を攻めあぐねた唐・新羅軍は
矛先を百済に変更、
劉仁願・劉仁軌の唐軍が百済を撃破し、
新羅へのルートを確保、新羅も呼応して百済を攻撃した。
天智二年(663)六月条、倭軍(前将軍上毛野君稚子)が新羅を攻撃している時、
即位した豊璋は鬼室福信に謀反心があると疑い斬殺する。
「ずっと唐へのレジスタンスを続けてきた名将の死により、
百済は最終的崩壊への道を歩むことになる。」(吉川真司『飛鳥の都』p.97)