【東夷の論証】

倭王武の上表文には、当時の倭国の支配領域が記されている。

東は毛人を征すること五十五国。

西は衆夷を服すること六十六国。

渡りて海北を平ぐること九十五国。

この文章をについて従来は、

「近畿天皇家が毛人、つまり東の蝦夷(関東・東北)や

西の衆夷、つまり熊曽(九州)を征伐し、

さらに朝鮮半島まで大軍をすすめた。こういう意味にうけとってきたのである。」

(古田武彦『日本列島の大王たち』)

古田武彦は前掲書の中で、

「『宋書』自身の姿から見れば、全く矛盾している。

なぜなら第二行目の”周夷”、これは倭王の居す、倭との周辺をさす言葉

―そのように見なすほかはない。なぜなら、先にのべたように、

”倭王=東夷の王”であり、”倭都=東夷の都”である以上、

その都を中心とする周囲の地を”衆夷”と呼んでいる、そう見なすのがすじだからである。」

と述べ、

上表文は倭王武が宋朝廷の臣下として倭国を東夷の国と認めて上で書いてあるので、

「衆夷」とは倭都の周囲のことと考えるほかはないと主張している。

海北が朝鮮半島のことであるので、倭都は朝鮮半島の南に位置する九州にある。

さらに古田氏は東の毛人を瀬戸内海の西半分の地域と主張している。

『三国志』の「烏丸鮮卑東夷伝」では、

烏丸,鮮卑,夫餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓,倭人が記され、

夫餘以降が東夷伝である。

『宋書』では「列伝第五十七 夷蛮」に南蛮諸国とともに列記されて、

高句麗国,百済国,倭国のことが記されている。

『三国志』も『宋書』も倭国は東夷の国として描かれており、

倭国も自らが中国の王朝の臣下であり「東夷の国」であることを自任しているというのが、

倭王武の宋に対するスタンスである。

古田氏は、

「三行文(東は毛人を・・・・・海北を平ぐること九十五国)のあと、

倭王の言い分が長文掲載されている。

それは中国の天子への忠節を、綿々と連ねているからでもある。」(前掲書)

とも述べている。