再録:2008年04月08日「吉岡正晴さんとの初邂逅」 | ノーナ・リーヴス オフィシャルブログ「LIFE」Powered by Ameba

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西寺郷太・奥田健介・小松シゲル NONA REEVES



「LIFE」リマスター・シリーズ
2008年04月08日「吉岡正晴さんとの初邂逅」

● 日曜日、長年の夢だった音楽評論家・吉岡正晴さんとの会食。
 繰り返すことになるが、ぼくと吉岡さんの文章との出会いは、1984年の夏。
 はじめて買ったLPであるジャクソンズの再結集作『ヴィクトリー』に収められたライナー・ノーツ「ジャクソンズ・ストーリー~栄光の15年間の軌跡~」だった。

● 当時、10歳のぼくは遂に手に入れた「レコードという宝物」を何度も何度も繰り返し聴き、写真はもちろん、ライナーや英文クレジットを貪るように隅から隅まで眺めた。
 インターネットのない時代の京都の小学生にとって、レコードのライナーやクレジットはほぼ唯一の情報源。『スリラー』までのマイケル・ジャクソンと、ジャクソン兄弟にまつわるエピソードが、モータウンでのデビューからCBSへの移籍など、吉岡さんによって描かれた「ジャクソンズ・ストーリー」は、共産主義者にとってのマルクスの「資本論」のように(!)、ぼくがマイケル及びモータウン、ブラック・ミュージックの世界にのめり込む「基礎の基礎」となった。

● 今になって逆算すると、現在53歳の吉岡さんが『ヴィクトリー』のライナーを書かれていたのはまだ29歳(若い!)。

● この晩、吉岡さんから直接聞いたエピソードは悶絶もの。
 1983年8月に(『スリラー』の夏!!!!)、マイケルのエンシノの自宅で、長男ジャッキーにインタビューした時の話。大きな門が開くと家の中に虎がいてびっくりした話。ラ・トーヤが「お茶でも飲みますか?」などと話しかけてきた話。自宅でくつろいでいたマイケルと一緒に写真を撮った話。その後、マイケルの家でホーム・パーティが開かれ、ほかのジャクソン兄弟とともに近所に住むセルジオ・メンデスが来た話・・・。いい時代だ・・・。

● 1983年の夏と言えば、1982年の年末にリリースされた『スリラー』が、シングル「ビリー・ジーン」、「今夜はビート・イット」のヴィデオの影響で未曾有のヒット作となり、そして3月に収録され5月に全米放映されたあの伝説のモータウン25周年ライヴ「Motown 25: Yesterday, Today, Forever」で「ムーン・ウォーク」が初披露され、世界中に衝撃が伝播していった、ちょうどその頃。
 7月に「スタート・サムシング」、9月には「ヒューマン・ネイチャー」が全米トップ10。
 世界中がマイケルに夢中になり、彼を愛していた夏。

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● ノーナ・リーヴス「ヒポポタマス」でも歌っていますよね!「眩し過ぎた夏、1983!!ロング・タイム・アゴー・・・、レコードには魔法が・・・」。まさにぼくが音楽を好きになったこの瞬間のことなんですよ。

● 実はこれが1年後、『ヴィクトリー』がリリースされ、小5のぼくが京都でこのアルバムを聴きまくっていた1984年の夏には、マイケルを巡る状況が完全に変わってしまっています。マイケルは真っ黒なサングラスで表情を隠し、気軽に家に記者を招いたり、兄弟と遊んだり、パーティをしたりすることはグンと減りました。
 1984年の大規模な『ヴィクトリー・ツアー』にまつわるビジネス面での軋轢などで、父親や兄弟ともぎくしゃくし、それまでのようにオープンではなくなってしまうのです。

 1984年、『スリラー』は世界一のレコード・セールス記録を持つアルバムとなり、グラミー賞を8部門受賞。成功を完全にてのひらに収めたのと比例するように、マイケルの表情は美術品のように冷たくなり、無邪気な笑顔が少しずつ消えてゆきました。
 だから吉岡さんの体験は、世界中の音楽評論家の中でも奇跡といってもいいタイミングだったんです。

● 吉岡さんは、日曜日、ぼくと会うなり「はじめて会えて嬉しいです。今夜は絶対に面白い貴重な夜になるから記録しておきましょう」と仕事でもないのにカセットで録音してくれました(結果4時間を超えてしまった・笑!)。
 そして、なんとびっくりしたんですが4月7日の御自身のブログで「マイケル研究家・郷太観」というタイトルで、ぼくについて書いてもらってるんです。嬉しいというか夢のようです。
 紹介してくれ、この宴を企画してくれた和製マイケル「mj-spirit」ブルー・ツリーくんに感謝!!


2008年04月08日「吉岡正晴さんとの初邂逅」
西寺郷太

【振り返って】

 今にして思えば、この時以降吉岡さんと仲良くさせて頂いたことが、その一年後にマイケルが突然亡くなってからの怒濤の日々へと繋がり、不思議な気持ちだ。
 東京に来て、ミュージシャンになってからもこの時点で10年以上の日々があったのに、何故か吉岡さんとお会いしていなかったことも、そのこと自体が嘘みたいだし。

 この日記を読み返すまで少し忘れてしまっていたが、マイケルが憑依したようなそっくりなルックスで踊りまくる素晴らしいダンサー、リー君が僕と吉岡さんを繋いでくれたことに感謝。そう言う意味では本当に(見た目的にも)「マイケル」のおかげだとしか言いようがない。

 この時、僕は数年後に自分がマイケルとジャクソンズ関連のすべてのオフィシャル・ライナー・ノーツを手掛けることになるなんて思ってもみなかった(DVD一作だけは担当していたものの)。今、リリースされている対訳もポイントとなるものは僕と吉岡さんで手分けしたり協力して訳し直したりもしている。それも、この時の会食で「訳し直したいんですよー!」なんて言ってたなぁ、と。

 そして僕が、とてつもなく衝撃を受けた「吉岡さんがエンシノの自宅を訪れた話」。僕も、今回のレコーディング中にティトに連れられてたどり着くことができた。それも、ジャクソン兄弟のスタジオまで入らせてもらえた。数日前に公開された「EMPTY HEART」のビデオにもその時の写真がティトの許可を得て使わせてもらっている。



本当に何かに「呼ばれ」「導かれている」としか思えない。